北海道で最初の溜池はどこかご存知?今も現役「峰延二号川溜池」

【美唄市】溜池(ためいけ)。それは、主に農業の灌漑用水を確保するために水を溜めておく人工池を指します。稲作とは切っても切れない関係にあり、古くは弥生時代には作られていたとされます。はじめ稲作に適さないとされた北海道でも、明治時代以降、試行錯誤の末、稲作が広まるようになり、それと同時に溜池も作られるようになりました。

では、灌漑用溜池は最初どこに作られたのでしょうか。北海道水田発祥地の北斗市でしょうか、寒冷地稲作発祥地の北広島市でしょうか。答えはそのどちらでもなく、美唄市峰延にありました。その名は「峰延二号川溜池」です。今となっては誰も訪れることのないであろう小さな溜池は、かつて公園化し賑わいを見せた時代もあるのだとか。文献を紐解きながら、その歴史に迫ります。

まさか本当に発祥地だったとは……新聞で発祥地確定

峰延市街地の南端、三笠市との境界付近に、その溜池はあります。[地図] 周囲を木々に囲まれ、夏場であれば葉が生い茂るため、近づかないとその全貌を見ることはできません。現在はそのほとりに「北海道溜池発祥之地碑」と美唄市教育委員会による説明板が設置されています。二号川溜池という名称は、二号川の上流にあるからつけられたもので、他にも三号川溜池などが近くにあります。

北海道で最初の溜池であることが確認されたのは1967年のことでした。「峰延二号川溜池七十五年史」(1967/7 峰延二号川溜池水利組合著)及び後年の「峰延二号川溜池百年史」(1991/8 峰延二号川溜池支線組合著)はその経緯について「発祥地であることは意外だった」と綴っています。記念誌刊行に際して「本道にて溜池の嚆矢(こうし=物事の始まり)ならん」と記述する1896年11月11日付・北海道毎日新聞の記事が発見されたのです。

この記録に加え、「北海道水田発祥地はあるが、溜池はまだ発祥がわかっていない。一番古いかわからぬがまず発祥地として名乗りを上げてしまったほうがよい」との小林篤一氏の助言があったこともあり、それ以降、この溜池が北海道初であると公言するようになりました。

では、北海道で一番最初に作られた北海道で最も古い溜池は、いつ誰によって、なぜここに作られたのでしょうか。

空知で稲作を作りたい!神山惣左衛門の挑戦

峰延二号川溜池の歴史は明治20年代にさかのぼります。当時ほとんどが原生林だった同地区周辺では、1882年に三笠に空知集治監が設置され、1887年に樺戸集治監との間に樺戸道路を開削、1890年に岩見沢~歌志内間の鉄道と上川道路が完成という、まさに開拓まっただ中という時代背景でした。

そんなさなか、空知集治監の嘱託のような形で作業指導員(樺戸道路工事監督)として勤務していた神山惣左衛門が、川水をせき止めて稲の試作をはじめました。もっと本格的に稲作を広めるべく、まずは水田と溜池のための土地取得に動きます。自身が工事監督をした樺戸道路近くを流れる二号川沿いの土地150余町歩の貸下げ許可を受け、笹川留吉が入植(1887年春)。さらに溜池用地として二号川上流の沢地である二号の沢の使用許可を得ました(1886年)。

まずは簡易な溜池、そして本格的な溜池に

1888年秋には笹川とともに二号の沢で川をせき止める溜池造成に着手し、1889年に小規模な溜池が完成しました。古老の話によれば、大木を切り倒して敷き並べ、上に土をかぶせて堤防型にしたものだったといいますが、サイズは不明。これが最初の溜池であったのですが、近隣の入植者の間にも稲作を希望する人が増えたため、二号川南側の地主だった小樽の木材商人・伊藤源三郎と一緒に本格的な溜池造成を計画しました。

そもそもこの二人、神山と伊藤は内地において溜池堤防を作った経験があったのだとか(前述の新聞記事より)。この二人がタッグを組むことで、より本格的で貯水量の大きな溜池が1893年に完成を見ました。その規模は30余町歩(29.8ヘクタール以上)の水田に給水が可能な規模だったそう。

こうして稲作ができるようになると、神山は初年度に六升五合のコメを収穫、翌年は一俵のコメを収穫し、開拓使関係者などに配って北海道でも米がとれる!と宣伝したといいます。本格的な溜池完成から10年たった1903年12月7日には、8名からなる二号川溜池水利組合が結成され許可されました(西谷農場主の小樽の海運業者・西谷庄八が会長)。北海道初の溜池造成と稲作普及に尽力した神山は、それを見届けた後の1906年、わずか57歳で亡くなりました。

そして現在へ

その後、大正時代初期には新谷常次郎(1914年)や勝井森太郎(1919年)が新たに加入しますが、溜池許容量を超えるため、各自自己負担で溜池をそれぞれ6尺(1.8m)ほど増堤しています。このように、加入者や水田が増えるたびに溜池の面積が増えていきました。

溜池が現在の姿になったのは1963年に融雪災害と老朽で亀裂が発覚した時。この時に急きょ、1966年までの3年間で改築工事が行われ、コンクリートブロックを使い、放水路幅を広げるなどの改善が施されました。峰延二号川溜池の現在のサイズは、堤高10.9m、堤長195m、堤幅3m、堤敷幅36.5m、貯水量20万立方メートル、満水面積7ヘクタールとなっていて、下流域の約70ヘクタール(1893年完成時の2倍以上)の水田に灌漑されています。

▼溜池からの灌漑用水は狭い水路を通り、日本最長の北海幹線用水路と国道12号線の下を通って、岩見沢市と美唄市の境界の峰延地区の水田に配水する

温泉旅館もあった?峰延公園化計画

二号川溜池は景観が美しいと評判だったことから、大正末期には公園化計画が持ち上がりました。昭和初期の1927年、手始めに松苗50本、桜苗50本を植樹し、付近の山から自生の山桜を移植。さらに、1930年には養鯉事業と釣りを考えて鯉5000尾を放流しました。ただ、溜池は3年に1度ほど完全水抜きをしていたので、その都度鯉をすくいあげて組合員に分配しお祭りで肴にするのが慣習だったといいます。鯉はその後昭和時代を通じて何度も放流されています。

1956年7月には、峰延駅前で蕎麦屋を営んでいた西垣清がボート営業をスタート。同時に湖畔に温泉旅館「峰湖荘」をオープンさせ、二代目が亡くなって廃業する1981年11月まで、ジンギスカンと鯉料理が名物となっていました。また、溜池を一周できる遊歩道も完成し、広場に遊具施設も設置されていました(吊り橋構想は立ち消えになりました)。

1973年には放流している鯉を釣る釣り大会を開催したり、1972年には観光協会が湖水祭と花火大会を開催。冬季にはスケート場になったりして、峰延公園は季節を問わず近隣の街からやってくる人たちで賑わっていました。いまは往時の賑わいの面影はどこにもありませんが、近年の動向としては、1995年、溜池隣接地に美唄三笠総合開発がゴルフ場「北海道リンクスカントリー倶楽部」を建設しています。

空知でもはやくから開けた峰延で、国道12号線からすぐの場所にあった「北海道溜池発祥地」。通りがかった際には、こうした歴史を知った上でぷらっと立ち寄ってみてはいかがでしょうか。

峰延二号川溜池の年表
1882年 空知集治監設置
1884年 神山惣左衛門が来道し三笠に
1885年 神山惣左衛門が空知集治監作業指導員に
1887年 樺戸道路開削工事、笹川留吉入植
1888年 初期の二号川溜池着工
1889年 初期の二号川溜池完成
1892年 本格的な二号川溜池着工
1893年 本格的な二号川溜池完成
1903年 二号川溜池水利組合結成
1906年 神山惣左衛門死去
1912年 瀬部惣次郎から土地購入
1914年 新谷常次郎加入で面積拡大
1919年 勝井森太郎加入で面積拡大
1927年 松と桜を植樹、公園化へ一歩
1930年 鯉を放流
1932年 1934年にかけて池面拡大などで土地購入
1951年 上流に水源地、浄水場を作り、峰延地区の水道用水に
1956年 有料ボートスタート、温泉旅館峰湖荘オープン
1963年 融雪災害・老朽化で改築着工
1966年 改築竣工
1967年 過去の新聞から北海道初であることが確実視
1972年 湖水祭・花火大会
1973年 釣り大会
1981年 北海土地改良区合併で二号川溜池支線組合に変更、温泉旅館廃業
1995年 ゴルフ場完成