石狩湾岸の難読地名(花畔・生振・濃昼・安瀬)いくつ読める?

アイヌ語由来の地名が多く、難読地名が多い北海道。中でもとても読みにくい、いやむしろ所見では絶対に読めない!と道民泣かせの難読地名が密集する地域があります。以前紹介した釧路町太平洋岸の難読地名群はその一つ。北海道にはもう一つ、難読地名が密集する地域があります。それが石狩湾周辺の小樽市から石狩市浜益にかけての海岸線です。

花畔、生振、濃昼、安瀬、文庫歌、畚部、忍路。あなたはいくつ読めますか?(一部内陸部を含みます。)

石狩湾岸の難読地名群

畚部

後志管内余市町の東側、小樽市との境界線付近にある地域の地名。「畚」の字は日常的に使うことがほぼないので、その時点で難読地名かもしれません。これは一文字で「ふご」と読みます。「ホン」「もっこ」とも読みます。「部」は「ブ」「べ」などと読みますが、ここは「っぺ」と読んでください。「ふごっぺ」。そう、フゴッペ洞窟で有名な「畚部」です。

アイヌ語に由来する地名で、古文書では「フンクンベ」「フグヘ」「フンコンベツ」「フンコベ」「フンゴヘ」「フンコヘ」「フンゴヱ」「フンゴベ」、漢字では「糞部」「魨辺」などとも記されてきました。明治初期から1900年(明治33年)まで存続した村名は「畚部村」と書いて「ふんこべむら」でしたが、いつしか「ふごっぺ」と読ませるようになりました。由来や意味については定説がありません。

現在は余市町栄町と登町に相当しますが、フゴッペ洞窟、フゴッペ川(古文書ではフンコヘ川)、小樽市との境界をなす畚部岬(フグベ崎、フンコヘ崎、明治20年代の地図で漢字表記)、フンコベ山(糞古部山)、畚部トンネル、畚部橋、畚部川橋梁、フゴッペ温泉などの形でその名残を見ることができます。このようにカタカナ表記も見られます。

読み方ふごっぺ
由来と意味アイヌ語のフムコイベ(浪声高き所)
フンキオベ(番をする所)
フンコベ(トカゲ)など諸説あり
難易度★★★★
畚部(ふごっぺ)

忍路

小樽市西部にある地名です。「にんろ」とは読みません。確かに「忍」は「しのぶ」「ニン」などと読みますが、実際の読みは想像していなかったものになります。「路」はそのまま「ろ」と読み、「忍路」で「おしょろ」と読ませます。

古文書では「ヲショロ」としてコタン名、場所、港の名前で使われていました。「ヲシヨロヱソ」「おしよろ」「おせうろ」「ヲシロイ」「ヲシヤロウ」「ヲシヨロ」、漢字表記では「お正路」「臨万歳」とされていました。ヲショロ場所(持場)が設定され、1869年に忍路郡(1958年に消滅)、明治初年から1906年(明治39年)まで忍路村が存在しました。

忍路半島の先端には入り江(忍路湾=小樽八区八景)があり、忍路港が整備されています。忍路ストーン・サークル、縄文時代の忍路遺跡、忍路トンネル、忍路臨海実験所、忍路海岸、忍路神社、忍路中継所、忍路会館、忍路郵便局、忍路中学校、忍路中央小学校、忍路の名が付いたバス停があります。忍路地区は1丁目~3丁目まで整理され、国道5号沿いであるとともに200人ほどが住んでいるため、難読地名ながら読める人が多いところといえるかもしれません。

読み方おしょろ
由来と意味オショロ・コッ(尻のような窪み)
ウショロ(湾の中)
難易度★★★
忍路(おしょろ)

文庫歌

小樽市西部の塩谷地区にある地名。「文庫」は「ぶんこ」と読みたくなりますが、「ぶんこうた」ではないのです。この3文字で「ぶんがた」と読ませるのですから驚きです。

小樽八区八景のうち桃内塩谷地区の八景のひとつに「文庫歌から望む岬のつらなり」が選ばれています。また、小樽出身の画家小川清さんの作品に「冬の文庫歌」があります。後志管内でも難読地名ベスト5に入るほどの難読度です。

現在は地名として残されていませんが、国道5号沿いのバス停「塩谷文庫歌」があり、目の前に海岸が広がります。塩谷海岸のうち西側は文庫歌海岸となっています。内陸部を通るフルーツ街道に「文庫歌トンネル」があります。そのほか「文庫歌遺跡」「文庫歌踏切」として名が残されています。近くにはゴロタの丘、伊藤整の文学碑などがあります。

読み方ぶんがた
由来と意味プンカルオタ(蔓(かずら)の絡まる砂浜)
難易度★★★★
文庫歌(ぶんがた)

於古発

小樽市中心部にある河川名、及び上流部にある山岳名。「於古発」と書いて「おこはつ」と読むかと思ったら大間違い。「おこ」までは正解ですが、最後は「ばち」と読ませます。

古文書では「オコバチ川」「オコハツ川」、その河口付近に「ヲコバチ」、「ヲコハチトマリ」28小屋、「ウコバチ」13軒などと記録されたほか、「ヲコバツ岬」があったことを記しています。この河口付近の集落は「澳発村」と表記され、1873年(明治6年)に現在の堺町の名に変更されています。

現在は観光名所・小樽堺町通りに交差する寿司屋通り沿いの川が於古発川(妙見川)となっています。この川は現在、小樽運河に注いでいます。上流には標高708メートルの於古発山がそびえています。

読み方おこばち
由来と意味はっきりしないが、ウコパシ(互いに・向かって・走る=急流が走り寄る)とされる
難易度★★★★
於古発(おこばち)

勝納

小樽市の札樽自動車道小樽IC付近にある地名。「勝」はそのままでいいですが、「納」は「ノウ」「ナン」「ノウ」「おさめる」と読むのが普通ですから「かつのう」などと読むかもしれません。でも正解は「かつない」。「ない」と読ませるのです。道内では「ナイ」に「内」ではなく、「納」をあてている例がいくつかあります。

古文書では「カッチナイ」「かつち内」「カツチナイ」「ヤチナイ」「カチナイ」「カツナイ」などと表記され、1868年の『小樽高島明細書』ではカツナイ・ノブカあわせて156戸・564人が住んでおり、小樽市街発祥の地ともいうべき街並みを形成していたとされています。

明治初年から1899年(明治32年)まで存在した町は、現在の勝納町のほか若竹町と潮見台の一部を含んでいます。町名としての他、勝納川、勝納埠頭、勝納会館、ホンダカーズ小樽勝納店、勝納川河口付近には かつない臨港公園、勝納橋、勝納川水管橋、勝納大橋など、街中らしく使用例が豊富ですから、普通に読める道民も少なくないことでしょう。

読み方かつない
由来と意味アチナイ(ニシンが群れて存在する川)
アットマリ(ニシンが群集する泊)
アッチナイ(豊かな・沢)
カツチナイ(水源・沢)
難易度★★
勝納(かつない)

張碓

小樽市東部の銭函近くにある地名。こちらも国道5号沿いにあるため、漢字や読み方に通じている人もいるかもしれません。読み方はそんなに難しくありません。音読みだと「ちょうたい」となりますが、そうではなく訓読みで、そのまま読めばよいです。「はりうす」です。

国道5号が大きく迂回している張碓の沢が地名の由来の場所。オオウバユリやギョウジャニンニクなど食料が生えていることにちなみます。古くは「ハルウシ」「ハルイシ」「ハルウス」「ハルシ」「ハリイシ」と表記されていました。明治初年から1902年(明治35年)まで張碓村として存在し、合併により朝里村に入りました。現在の張碓町と春香に相当します。

張碓町市街が国道近くにあるほか、張碓郵便局、張碓小学校(旧張碓教育所)とバス停名、旧張碓峠、張碓川、JR函館本線の旧張碓駅(2006年廃止)、札樽自動車道張碓大橋などとして残っています。

読み方はりうす
由来と意味ハルウシ(食料・群生する)
難易度
張碓(はりうす)

花畔

石狩市花川市街から道道44号線を挟んで北東に広がる地域。難読地名の筆頭にあがる地名であり、一発で読めるわけがない地名です。「かはん」? 違います。5文字で、そのうち2文字が濁音だと言われるとますます混乱します。「花」を「はな」とも読まないし3文字だし、「畔」も「ハン」「あぜ」「ほとり」とも読みません。「くろ」が最も正解の読みに近いでしょうか。正解は「ばんなぐろ」。

地名の由来は、アイヌ語で漁場の名とされています。由来を見ると最初は「ばなんぐろ」でしたが、いつしか「ばんなぐろ」となったようです。古文書では「バンナグロ」のほか「バナングル」「ハンナンクル」「バンナルクル」「ハンナンコロ」「パナンクル」などとしており、1871年(明治4年)から1902年(明治35年)まで花畔村として存在しました。現在の花川の南の一部、花川北・東地区、緑苑台、新港の一部が、花畔村に含まれていました。『石狩国地誌提要』では「花畔村」と漢字表記が見られるようになりました。1902年(明治35年)に樽川村と合併して花畔と樽川から一文字ずつ取って花川村が誕生、その後石狩町と合併して、現在は石狩市の一部です。

現在は道道44号線の北東側が花畔で、石狩市役所にほど近い場所は花畔の条丁目が設定され宅地化が進んでいます。住民も多く、道内屈指の難読地名とはいうものの、割と知られた存在です。路線バスでも札幌駅前から花畔団地線が存在します。花畔本通・花畔環状通といった通り名、公園名のほか、花畔神社、特別養護老人ホームばんなぐろ、セブンイレブン石狩花畔店などがあります。こうしたことから、「ばんなぐろ」を打ち込んで漢字変換もスムーズにいくことが多いです。

花畔の使用例
花畔埠頭、道道273号花畔札幌線、花畔公園(苫小牧市沼ノ端ウトナイに同名の公園がある)、花畔中央バス停、中央バス花畔団地線、南花畔通線、花畔動物病院、南花畔通、花畔原野、国道337号線花畔インターチェンジ、花畔大橋、花畔・銭函間運河、花畔団地、花畔神社、花畔SS、花畔中央会館、花畔浜堤列、旧花畔村、旧花畔農協(現石狩市農協支店)、花畔環状通、花畔埠頭
通、臨海道路花畔幹線、花畔幹線用水路、花畔中央通、花畔中央通、花畔公民館、花畔市街浄水場

読み方ばんなぐろ
由来と意味パナウンクルヤソッケ(川下人の漁場)
難易度★★★★★
花畔(ばんなぐろ)

生振

石狩市郊外、茨戸川と石狩川に囲まれた地域。「生きる」に「振れる」と書くこの地名も、石狩難読地名の有力株です。まず「生」は「セイ」「ショウ」「いきる」「うまれる」「はえる」「なま」「き」などと幅広い読み方を持つ漢字ですが、そのどれにも当てはまりません。なんと「おや」と読ませます。「振」については「シン」「ふれる」「ふる」などと読むのですが、訓読み「ふる」をそのまま生かします。「おやふる」です。隣接する「親船町」は素直に「親」を使っているのに、と思ってしまいます。

旧米沢藩士 玉木琢蔵らの移民団を開拓使判官岩村通俊が生振村と命名。『石狩国地誌提要』で「生振村」と表記されました。近世では「フル」「ヲヤウ」「トウヤウシ」「カミバンナグロ」「マクンベツ」「モシンレベツ」などと表記されているエリアが、1871年(明治4年)から1902年(明治35年)に存続した生振村になります。生振原野(面積約3,550ヘクタール)に広がるこの地域は、石狩川沿いにあるためたびたび洪水被害に見舞われてきました。生振捷水路(おやふるしょうすいろ)造成で石狩川が直線化されると、北側の北生振・美登位エリアと南側の生振エリアが分断されました。

国道337号を走っていると、この地名看板に出くわします。そのため、生振バイパスとも呼ばれており、生振大橋もわたります。生振小学校、生振神社、東生振神社、生振寺、生振の白桜、おやふるはうす、生振の里、生振原野には東西に生振砂丘が貫いており、この丘が地名の由来になったとする説もあります。なお、「おやふる」の漢字変換はスムーズに出てきます。

読み方おやふる
由来と意味オヤフル(川尻の丘、尻が陸地(についている)丘)
難易度★★★★
生振(おやふる)

若生

石狩市の石狩川河口付近、石狩本町の対岸(東岸)にある地域。「わかしょう」「じゃくせい」などとは読みません。正解は「わかおい」。「ワッカヲイ」が転じたものとされ、「ワツカヲイ」「ワツカウイ」などと表記されてきました。

1871年(明治4年)から1902年(明治35年)まで若生町として存続しました。『石狩国地誌提要』によると石狩川東に若生町があります。面積は広くなかったものの、鮭の漁場として栄え、開拓使石狩出張所がおかれたほか、渡船場、馬継所、巡査駐在所など交通の重要な場所でした。1897年(明治30年)には大火災が発生し、町の中心は八幡町に移りました。石狩河口橋建設と護岸工事などで当時の街並みの形跡は失われました。若生C遺跡などがあります。

読み方わかおい
由来と意味ワッカオイ(水のあるところ)
難易度★★
若生(わかおい)

知津狩

石狩市の石狩川河口で合流する河川名「知津狩川」。「ちつかり」と読んでしまいそうですが、最初の「知」だけちょっとちがった読み方をします。「しら」と読んでいただき、全体で「しらつかり」と読ませます。

古文書ではコタン名や河川名として紹介され、「シリアッカリ」「シリアツカイ」「シリヤツカリ」「シラッツカリ」「シラツカ」「シリアツカリ」などと表記。地名の元になったアイヌ語には、砂浜と岩場の境界付近という意味が込められており、石狩平野とここより北側に広がる増毛山地の境目であることがわかります。かつての流路「旧知津狩川」は聚富湿原を北進して日本海に直接注いでいましたが、治水工事により現在の河川に切り替えられました。

現在住所表記としては、旧知津狩川流域に石狩市厚田区聚富シラツカリとしてあるほか、知津狩川、知津狩橋、知津狩段丘、知津狩遺跡、NTTコミュニケーションズの海底ケーブル陸揚室として知津狩ランディングステーションがあります。

読み方しらつかり
由来と意味シララ・トゥカリ(岩の此方、磯の端)
難易度★★
知津狩(しらつかり)

聚富

石狩市厚田区(旧厚田郡厚田村)南端の地域名。石狩川河口に流れ込む聚富川は、合併前の旧石狩市と旧厚田郡厚田村の境界線をなしていました。「聚」という漢字は日常で使わないので読み方が難しいですが、「シュウ」「シュ」「ジュ」「あつまる」「あつめる」と読みます。とはいえ、この中にその読みはありません。「聚」を「シッ」、「富」を「プ」と読ませ、「しっぷ」と読みます。「湿布」ではありません。

古文書ではコタン名や河川名で表記され、「シュップ」「シユツフ」「シユプ」「シュッフ」などと表記されました。19世紀中ごろに、石狩(イシカリ場所)と厚田(アツタ場所)の境を知津狩から聚富に移動したそうです。明治初年から1902年(明治35年)まで厚田郡聚富村として存在しました。それ以降は望来村の一部に属しました。

現在は国道231号沿いに石狩市厚田区聚富、聚富中央の集落があり、聚富川のほか、聚富会館、聚富神社、聚富保育園、聚富ふれあいセンター、聚富ミニパーク、聚富送水ポンプ場、聚富配水池、聚富小中学校跡地のほか、路線バスのバス停として聚富中央、聚富団体、聚富、聚富北部があります。

読み方しっぷ
由来と意味シュップ(箱)
川底が箱の形である様から
難易度★★★
聚富(しっぷ)

正利冠

石狩市厚田区望来を流れる河川名。月桂冠のように「せいりかん」「しょうりかん」と読んでもカッコよさそうですが、「冠」が予想外の読み方をします。北海道の地名に詳しい方であれば、「新冠」「占冠」「愛冠」と言えばわかっていただけるでしょうか。北海道の地名で「冠」が最後に来る際は「かっぷ」と読ませることが多いです。正解は「まさりかっぷ」です。

現在は正利冠川が望来市街を通って日本海に注いでいます。その内陸部に正利冠がありました。内陸の河川沿いにシャトレーゼカントリークラブマサリカップがあります。あまり知られていない地名ですが、なぜか、漢字変換で一発で出てきます。

読み方まさりかっぷ
由来と意味マサラカップ(海岸または草原の木の皮を置いてある所)
難易度★★★
正利冠(まさりかっぷ)

望来

石狩市厚田区望来。読み方はそれほど難しくなく、「望」は「本望」の「もう」、「来」は「ライ」と読んでいただければOKです。コタン名や河川名として表記されてきました。古文書では「モウライ」「モーライ」「ムライ」「モウラヱ」「モウラニ」「モウラヰ」と記されています。

明治初年から1902年(明治35年)まで厚田郡望来村として存在しました。その後、嶺泊村・聚富村と合併して二級町村の望来村を形成しました。現在の望来地区には、望来山を水源として望来川が流れ、望来大橋や望来橋、望来郵便局、望来神社、望来変電所、望来浜中央海水浴場、望来コミュニティセンター、望来オフロードパーク、JA北いしかりの望来給油所、望来駐在所、望来ダム、養豚事業として厚田を代表するブランド豚「望来豚」があります。路線バスのバス停は、望来坂上、望来坂下、望来、望来105番地、望来大橋があります。

読み方もうらい
由来と意味モライ(遅い流れの川)
ムライ(塞がる川)
風によって閉じたり開いたりする事。
難易度
望来(もうらい)

古潭

石狩市厚田区の地名。読み方はそれほど難しくなく、「こたん」。アイヌ語でコタンと言えば「村」として知られていますが、元になったアイヌ語は「コタンベツ」です。古文書では「コタンヘツ」「コタンベツ」と記されました。コタンベツ川の記録も残されています。明治初年から1902年(明治35年)は厚田郡古潭村として存続し、その後は厚田村の一部になりました。

現在は古潭川河口部に集落(石狩市厚田区古潭)があり、古潭漁港、古潭八幡神社、路線バスのバス停名として残されています。

読み方こたん
由来と意味コタンウンペッ(村の川)
コタンペッ(村・川)
アイヌの家、村があったことから
難易度★★
古潭(こたん)

押琴

石狩市厚田区にある地名。「おしこと」「おすこと」なのか、「琴」は「きん」「こと」どちらなのかで迷いが出てきそうです。正解は「おしこと」です。アイヌ語「ヲショロコツ」がもとで、元禄郷帳には「おしよろこつ」、天保郷帳には「ヲシヨロコツ」がみえます。そのほか「ヲシヤウロコツ」「ヲシヨロクチ」「ヲショロコチ」などと記録されています。

明治初年から1902年(明治35年)まで厚田郡押琴村が存在しました。ホーストレッキングの押琴ファーム、札幌と厚田を結ぶ路線バスのバス停「押琴」があり、住所表記「石狩市厚田区押琴」として残されていますが、区域は広くなく、住宅は数える程度しかありません。

読み方おしこと
由来と意味オソロコッ(尻・くぼみ)海岸の山の崩れた跡が尻のくぼみのよう
ウプソロコッ(懐・くぼみ)澗が物の懐のようにくぼんでいる
難易度★★
押琴(おしこと)

別狩

石狩市厚田区の地名。読むのはそれほど難しくなく、「べっかり」と読ませます。明治初年から1902年(明治35年)まで存続した別狩村は「べつかりむら」と読みましたが、いつしか「べっかり」と読むようになったようです。もとになったアイヌ語は「ベットカリ」で、「ベツトカリ」「ヘツトマリ」「ベツカリ」、漢字表記では「別苅」などがみられます。厚田郡各村の戸長役場は1882年(明治15年)古潭からここへ移転され、6年後には厚田村に移転しました。1887年(明治20年)には登記所(裁判所)や警察署を設置していた時代もあったようです。

現在は「石狩市厚田区別狩」として、厚田中心部を流れる厚田川の南側が相当します。路線バスの別狩、別狩中央バス停があり、ENEOS厚田別狩SS、ケアセンターべつかりがあります。

読み方べっかり
由来と意味ベットゥカリ(川の手前)
難易度★★
別狩(べっかり)

発足

石狩市厚田区厚田の厚田川中流域、道道11号線沿いにある地名。「ほっそく」と読みたくなる気持ちはわかります。でも正解は「はったり」なのです。ハッタリをかましているわけではありません。後志管内共和町には同名の村がありました。

これまで、発足橋、発足小学校(廃校=発足ファミリースポーツセンター・発足郷土資料室)、発足川、発足神社、発足会館、発足地域交流センター、石狩消防団発足分団、一般混乗型の石狩市営スクールバス発足線などとしてその地名が使われてきました。

読み方はったり
由来と意味ハッタル・ウシ(淵があるもの)
難易度★★
発足(はったり)

安瀬

石狩市厚田区安瀬の地名として存在する地域。石狩の難読地名で最強レベルといってもよい難解な読みをします。普通に読めば「やすせ」です。明治時代にはそれで正解でした。しかし、現在の住所表記ではそうは読みません。ひらがな4文字で、最後は「け」で終わると言われたら、もう頭パニックです。「瀬」のどこに「け」の要素があるのかと思うことでしょう。「瀬」はかつての「漱(すすぐ=すすげ)」なのではないかとされています。つまり「やす・すすけ」が縮まって「やそすけ」となったというわけです。

漢字表記「安瀬」のもとになったアイヌ語は「ヤススケ」であり、コタン名や河川名として記録されています。古文書では「ヤソシケ」「ヤソスケ」「ヤソツケ」「トーシヨシユケ」などと記録されてきました。『蝦夷日誌』ではヤソシケを流れる川をハママシケとの境界とすると記されています。明治初期から1902年(明治35年)には安瀬村が存在し、読み方は「やすせむら」でした。成立頃は「やすせ」と訓じていたのですが、いつしか本来のアイヌ語の読み方に戻ったようです。

現在、国道231号沿いに大きな集落はありませんが、住所表記「石狩市厚田区安瀬」が存在し、札幌と石狩市浜益区を結ぶ路線バス「札浜線」のバス停「安瀬」があります。安瀬山(標高654メートル)、安瀬神社跡、安瀬海岸などと使われます。第43代横綱の吉葉山潤之輔は、ここ安瀬の裕福なニシン漁の網元の家に生まれました。現在は漢字変換もスムーズにできます。

読み方やそすけ
由来と意味ヤソシケ(差網場?)
アイヌが細小な差網で魚を捕ったため
難易度★★★★★
安瀬(やそすけ)

濃昼

石狩市厚田区の北端、及び浜益区の南端に位置する地名。石狩の難読地名の代表的存在のひとつ。「のうちゅう」「こいひる」などと読めますが、そうは読みません。ひらがなで4文字で、濁音が2文字も入るというのですから驚きです。この地名を聞くと、その発音の類似性から、北海道にはあまりいない虫の名前を思い出します。

この地名の元になったアイヌ語は「ゴキビル」。コタン名、河川、岬、山の名前としても記録されています。古くは「こきひる」「ゴキビル」「コキビル」「コキヒロ」「コキヒル」「ゴキヒル」「コギビル」「ゴキビリ」「ゴキヒラ」「ゴケビラ」「ゴキンビル」「ボキンビリ」など様々な呼び方で記録されていました。濃昼を流れる川をアツタ場所とハママシケ場所の境界線としていました。明治初年から1902年(明治35年)は厚田郡濃昼村が存在していました。

現在は濃昼川、河口に濃昼集落、濃昼会館、濃昼海浜キャンプ場、濃昼漁港、濃昼神社、濃昼トンネル、濃昼岳(標高621メートル)、南に隣接する安瀬(やそすけ)とを結ぶ濃昼山道(濃昼峠)があります。住所表記では濃昼川を挟んで厚田と浜益にまたがっており、浜益側では尻苗村濃昼という住所表記が用いられてきました(現在は石狩市浜益区濃昼)。漢字変換もスムーズにできます。

読み方ごきびる
由来と意味ポキンピリ(蔭の蔭)※岬の蔭の意味、(水渦巻)
難易度★★★★
濃昼(ごきびる)

送毛

石狩市浜益区南端の地名。「そうもう」と読みたくなりますが、正解は「おくりげ」。もとになったアイヌ語は「ヲクリケ」で、コタン名、岬名でも記録されています。そのほか「ヲクルケ」「ヲクル」「ヲクリベ」「ヲクリキナ」とも呼ばれました。近くには「尻苗」があり、明治初期から1902年(明治35年)には、送毛とともに「尻苗村」を構成していました。

長年、住所表記は「浜益村尻苗村送毛」でしたが、現在は「石狩市浜益区送毛」となって尻苗の旧村名が消えました。送毛入口バス停、送毛稲荷神社、送毛川、送毛峠、送毛山道があります。送毛川河口付近に尻苗小中学校の跡地があります。

読み方おくりげ
由来と意味オクリキナ(谷地草?)
ウクルキナ(サジオモダカ)※食用植物
難易度★★
送毛(おくりげ)

愛冠

石狩市浜益区の送毛と毘砂別の間にある、岬の名で用いられています。同名の地名が十勝管内足寄町、釧路管内厚岸町にあるのでわかる方もいるかもしれません。「冠」は「かっぷ」と読ませるのが北海道流ですので、「あいかっぷ」と読みます。古文書では「アイカツフ」「アイカツプ」「アエカブ」「アイガツプ」「アエカツプ」「アイカプ」「カヒカウ」などと記録されてきました。

この海岸線は高さ100メートル級の海食崖(柱状節理)を形成しており、人を寄せ付けない多くの岩礁が存在しています。その一つである「鷲岩」のあたりを愛冠岬といいます(千本ナラのちょうど西側)。古文書では「アイガツプの岬」があり、終始大難所だったと記されています。

読み方あいかっぷ
由来と意味アイカプ(大崖、できない、矢が届かない)
難易度★★★
愛冠(あいかっぷ)

毘砂別

石狩市浜益区にある地名。読み方はちょっと考えると読めそうですが、いかがでしょうか。「びしゃべつ」が正解です。「砂」を「しゃ」と読むのがポイントです。もとになったアイヌ語は「ビシャンベツ」で、古文書では「ビシヤンヘツ」「ヒシヤンベツ」「ビシヤンベツ」「ヒシヤンヘツ」「ヒサンベツ」「ビザンベツ」「ビサンベツ浜」などと記録されてきました。この付近は明治初年から1902年(明治35年)までは浜益郡川下村に包含されました。

現在は「石狩市浜益区毘砂別」の住所表記となっています。送毛山道途中にある毘砂別展望台、毘砂別神社、毘砂別会館、毘砂別川、路線バス毘砂別バス停、毘砂別海水浴場があります。

読み方びしゃべつ
由来と意味ピサンペッ(石が・流れ出る・川)
大雨が降ると砂利が流れ下ることから
難易度★★
毘砂別(びしゃべつ)

茂生

石狩市浜益区浜益の地名。「しげう」「もせい」などとも読めそうですが、ここは「もい」と二文字で読ませるのが正解です。かわいいですね。ツイキャスに「モイ!」という表示がありますが、関係ありません。古文書では「モイ」と表記され、明治初年から1902年(明治35年)まで浜益郡茂生村が存在しました。

現在、茂生川や茂生遺跡を除けば、その名はほとんど残っていません。茂生は大字茂生村がなくなった今、現在の石狩市浜益区浜益(漁港や支所のあるほう、はまます郷土資料館付近まで)のことだからです。1871年(明治4年)開拓使浜益出張所開設、9年後には浜益郡戸長役場が設置されたほか、郵便局や電信局の設置、電話交換所、簡易教育茂生学校(茂生尋常小学校)、遊郭が設置されるなど浜益郡の中心的な役割を担いました。1902年の合併に伴い浜益村になると、旧村名「茂生」の名より「浜益」の名を多く使うようになり、100年以上たった現在は「茂生」を見つける方が難しくなっています。

読み方もい
由来と意味モイ(静かな海)
難易度★★
茂生(もい)

群別

石狩市浜益区北部にある地名。「ぐんべつ」と読みたくなる気持ちはわかります。正解は「くんべつ」と、最初は濁らずに読みます。アイヌ語「ホンクンベツ」に由来しており、コタン名、河川名、岬の名として記録されています。「ホンクンベツ」「ホンクンヘツ」「ポンクンベツ」「ホンクヘツ」などと古文書では記録されています。

明治初年から1882年(明治15年)まで浜益郡群別村として存在、その後雄冬村と合併して1902年(明治35年)まで存在しており、同年に浜益村の一部になりました。現在は「石狩市浜益区群別」として表記され、路線バスのバス停名、群別川、群別岳(標高1376メートル)、群別稲荷神社、群別漁港、群別自治会館、市営群別牧場があります。

読み方くんべつ
由来と意味ポン・クンネ・ペッ(黒い石のある小さい方の川)
難易度★★
群別(くんべつ)

石狩市浜益区の群別と雄冬の間に位置する地域の地名。簡単、「ほろ」でしょ。実は「幌郵便局(ほろゆうびんきょく)」などでそう読まれることもあるのですが、半濁音で「ぽろ」と読ませることが多いです。「札幌」の「ポロ」ですね。路線バスのバス停は「幌(Poro)」と記され、「幌川(ぽろがわ)」、「幌漁港(ぽろぎょこう)」、「幌灯台(ぽろとうだい)」、幌中学校跡、幌稲荷神社、幌海水浴場などと使われています。

南に隣接する「群別(くんべつ)」はアイヌ語「ホンクンベツ」に由来しますが、こちら「幌(ぽろ)」はアイヌ語「ポロクンベツ」に由来します。コタン名、川名、岬名、山名で記録されています。両地区を流れる幌川と群別川は長流で急流であることが似ている兄弟のような河川であり、両方とも「クンベツ」の名を由来としています。「幌」に関しては「クンベツ」を略して「ポロ」だけを地名に採用しています。古文書では「クン子別」「ホロクンベツ」「ホロクンヘツ」と表記されていました。

この幌を通る国道231号は、幌から雄冬間が悪天候時に通行止めになることがあり、電光掲示板などにこの地名が登場することがあります。

読み方ぽろ
由来と意味ポロクンべツ(大きい・クンべツ川)
難易度★★
細(ぽろ)

みなさんはいくつ読めましたか? 札幌近郊にもこんなにも読むのが難しい地名があるんです。ドライブの際には地名にも注目して走ってみてくださいね。

参考文献:『北海道の地名』『石狩市史』『小樽市史』『石狩ファイル』ほか