| 定番度 | ★★★ |
| オススメ度 | ★★★ |
| 住所 | 函館市住吉町 [地図リンク] |
| アクセス | JR函館駅前から市電函館駅前→市電谷地頭行、終点から徒歩約20分。 |
| 訪問最適時期 | 4月~11月の6:00-20:00。 |
| 営業日/時間 | 4月~11月の6:00-20:00。 |
| 滞在時間(目安) | 30分~。 |
| 必要経費 | 無料。 |
| 駐車場 | 無料50台あり。 |
| 公式サイト | |
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たちみちみさきと読む。アイヌ語の「ヨコウシ(魚をとるため立って待ち伏せするところ)」が地名の由来になった。函館山南東の海岸に位置しており、晴れていると、青森県も見ることができる。夜にはイカ釣り漁船の漁火も見える。函館山が海に落ち込むところの海岸は断崖であるが、北東のほうを見ると、湯の川方面の市街地を望む。函館中心地に比較的近いが、ここだけ別世界のように静寂。函館山の裏側はまだ自然が残されている。
立待岬へのルートは若干わかりづらい。最寄り駅は函館市電の終着駅谷地頭駅。そこから徒歩で約20分。看板に沿っていくと間違いない。車で行く場合、一方通行なので注意が必要。細い案外急な坂道を登り続けると、坂の頂上付近に「石川啄木一族の墓」があるが、停車すると迷惑なのでとりあえず駐車場を目指そう。道の終点に駐車スペースがあるのでそこに車を止めて周辺の散策をする。帰りは別の森林ルートで函館公園近くに出る。ちなみに立待岬へ通じるルートは20:00~6:00、および12月から3月までの冬季、さらにお墓参りで例年7月13日は通行止。


ここでは、立待岬のほか、近くにある、石川啄木一族の墓、与謝野寛・晶子の歌碑、宮崎郁雨と砂山影二の歌碑を紹介する。文学スポットでもあるが、石川啄木を中心にいろいろな人物のつながりが見えてくる。
立待岬
駐車場のトイレから下りることができる遊歩道がある。海岸にある岩は、火山の際にできた溶岩
「立待岬溶岩」であり、函館山もこの岩でできている。デイサイト(流紋岩と安山岩の中間)と呼ばれ、板状節理もみられ、よく見ると縞模様があるのが特徴。江戸時代には五稜郭などにもここの石が切り出され使われた。
この周辺は函館山が立ち入り禁止であった第二次大戦時代、同じように立ち入り規制区域であった。18世紀の江戸幕府蝦夷地直轄時代には、警備(外国船監視)のため台座が設けられていたという。ここにはハマナスも植えられており、初夏には花を咲かせる。
石川啄木一族の墓
1907年5月5日~9月13日までの132日間に函館に滞在した歌人・詩人の石川啄木が死後葬られたのはここ。函館は妻や子供たちも後に呼び寄せて一緒に生活した地でもある。わずかな期間ではあったが、啄木にとって楽しい思い出の地でもあったようだ。それで石川啄木は生前「死ぬときは函館へ行って死ぬ」と言っていた(正確には後述の宮崎郁雨への手紙)らしい。
歩いてめぐることになる。墓地の中に石川啄木一族の墓と宮崎一族の墓がある。石川啄木一族の墓は宮崎郁雨により、啄木の一元二面の哲学などを考慮に入れ旧日露国境の境界石のデザインを採用した。墓碑には「東海の小島の磯の白砂に/われ泣きぬれて/蟹とたはむる」とある。1912年4月13日に東京で27歳で亡くなった啄木ほか、妻の節子、3人の子供、両親がここに葬られた。最初は啄木の遺骨は函館にはなかったが、1913年に妻により函館に移動。しかし、妻も5月5日に亡くなった。1914年6月にようやく一族の墓が完成したが、現在地ではなかった。
宮崎一族の墓が近くにあるのだが、1926年8月に現在の位置に石川啄木一族の墓を設けた歌人・宮崎郁雨の一族の墓である。この宮崎郁雨という人物は石川啄木を影で援助し続けた人物で、石川啄木の友人、そして啄木の義理の弟(啄木の妻の妹と結婚した)にあたる。石川一族の墓設置だけではなく、貧しかった啄木が函館にやってきた際に経済的な援助を行って啄木に尽くした。
「宮崎郁雨と砂山影二の歌碑」も近くにある。宮崎郁雨については前述したが、砂山影二とは、函館で活動した歌人で、石川啄木に強く影響された人物であるが、20歳で青函連絡船から自殺した。
与謝野寛・晶子の歌碑
1931年6月6日、与謝野寛・晶子が函館に訪れた。その際に歌を詠んだのだが、その歌碑が大小2つの石板となってこの岩に掲げられている。与謝野寛は函館図書館創設者岡田健蔵の親友宮崎郁雨「浜菊を郁雨が引きて根に添ふる立待岬の岩かげの土」。与謝野晶子は岡田健蔵と石川啄木に触れて「啄木の草稿岡田先生の顔も忘れじはこだてのこと」。建立されたのは1957年8月15日。函館に発足した図書裡会によりたてられた。
【MISSION!(指令)】