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石狩川はかつて船がいっぱいいた

石狩川はかつて船がいっぱいいた

 石狩川で、道内唯一の渡し舟だった「美浦渡船」の美浦丸が、 2005年10月10日を最後に、毎日定期運航としては長い歴史の幕を閉じました。 しかし、かつて石狩川には船がいっぱい往来していました。

 最後に「まとめ」があります。

石狩川が唯一の道だった時代!

 北海道開拓初期から、石狩川の船の運航が唯一の交通手段でした。陸上 を通る道がまだなかったわけですから。最初期は大木をくりぬいた丸太舟 でしたが、本格的な船は、開拓が奥地(川の上流)に進んだときや、現在の 月形町に樺戸集治監(かばとしゅうちかん=つまり刑務所)が誕生したとき。

 船の名前についてですが、楽産商会の船である「第一樺戸丸」「第二樺戸丸」が石狩~樺戸(月形)で、1884年には、樺戸集治監へ囚人を運ぶ監獄専用汽船「神威丸」「安心丸」、1890年には「上川丸」「空知丸」がそれぞれ就航しています。上川丸は、立派な外輪船でした。このように、開拓に伴って そんな重要な河川へと変貌を遂げていったのです。

 石狩川の中継地点になった江別には港ができ、流通が盛んで大変にぎわ ったそうです。理由は、鉄道から船への荷物受け渡しがなされていたため。 乗降客数といいますか利用客も、石狩川沿岸寄港地の中で、ずば抜けて多 かったようです(2位は月形)。

 石狩川上流域 →(船)→ 江別港(積み替え) →(鉄道)→ 札幌方面
 ※当然逆もあり、札幌からは生活物資を上流へ、逆は木材や作物を輸送

命令航路とは?

 さきほども触れた楽産商会は石狩川の運輸において最大手でしたが1897年に解散、すぐ後に別の会社もできましたが、2年ですぐ解散。このように民間会社にとっては、経営が厳しいこともありましたので、北海道庁は 「命令航路」として指定し、1年あたり1200円を補助金としてあてて、定期運航を とめないようにさせました。その適用を受けたのは当時の運輸会社である「石狩川汽船合資会社」でした。

 1902年から1934年まで命令航路指定であり、石狩(河口)から江別は上り 8時間下り4時間、江別から月形は上り9時間もかかりました。そんな石狩 川運輸も、札沼線、函館線(岩見沢~旭川)鉄道が開通するにつれ、必要な くなってきました。

渡船も重要だった!

 石狩川に沿って運航する船はなくなっても、渡船はありました。昭和時 代初期にはけっこうな数ありました。有名どころでは、河口付近の石狩川 渡船場が1978年まで続きました(やはた丸・あつた丸・らんこう丸・ちどり丸)。その他、月形や夕張太、東滝川など最大 150弱の渡船場が流域に存在していたとされています。

 橋をかければいいじゃないか?確かにそうなのですが、暴れ川の異名を とっていた石狩川は、蛇行が大きく、川の流れも頻繁に変わったり、洪水 もあったりで、橋をかけてもかけても流されたそうです。あくまでも当時 の技術では……ですが。

 しかし、その渡船も、土木技術の発達によって、治水事業、橋の架設な どで、衰退していきます。特に1940年代~1950年代にかけては一気に100 ほどが廃業しています。

 最初に触れた浦臼町晩生内(おそきない)と美唄市中村の間の最後の渡船 「美浦渡船」も、他の渡船同様、通勤通学をはじめかつては住民の足として活躍してい ました。

 まとめ:石狩川は唯一の道だった。
     鉄道の延伸に伴って、船の運輸は衰退・終焉。
     橋が各地でかかり、渡船も衰退・終焉。

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