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上富良野町で二回開拓が行われた理由

編集部
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 北海道の開拓時代、土づくりは農業の基本でした。厳しい自然と向き合い、原生林を切り開き、土壌を整え、試行錯誤の末、ようやく作物を収穫できるようになった、そんな地域が多くあります。中でも、土の館のある上富良野町は、明治時代の開拓と大正時代の開拓、二回の開拓が行われたことで知られています。

 1926年5月24日16:17、十勝岳が大爆発しました。火山灰のみならず、溶岩が雪を溶かしながら下ったため、大泥流が発生しました。主な被害地域は美瑛町、上富良野町、中富良野町。その速度は、上富良野町のある地域で時速40kmといわれています。この大災害で、死者・行方不明者144名・負傷19名を出し、482戸が罹災、田園地帯800ヘクタールが被害を受けました。

 最大の被害を受けたのは上富良野。特に日新・草分地区・三重団体で人的被害が大きかったほか、家畜も多く死亡。明治の開拓時代に入植(1896年以降本格化)し、原生林を切り開いてようやく収穫できるようになった田畑は、あっという間に泥流に飲み込まれてしまいました。

 最大深さ2.5mの酸性鉱毒の泥流のために草も生えることがなくなった地を再生できるのか。当初この件に関し、上富良野地区の農地を復興するのか、放棄するのかという議論がなされていました。結局、国庫補助として耕地復旧費を受け、翌年6月に上富良野村耕地整理組合が耕地復旧工事に着手することになりました。

上富良野町で二回開拓が行われた理由  その苦労は、上富良野町の「土の館」にモノリス(土壌断面標本)の形で保存されています。上富良野町草分地区から採取した、幅1m・長さ4mの大きなもので、11の土の層を確認できます。1万年前から堆積してきたものが下から積み重なり、上から4番目の層は明治開拓期の土壌、2番目~3番目の層は十勝岳大噴火による泥流、一番上は泥流の後に苦労して客土した部分です。

 一番上の層はどのように改良したのでしょうか。上富良野市街地から上流の泥流が深いところ、45cm~150cmくらいのところでは、除去すると多額の費用がかかることから、その地の土壌を使うことをせず、近い山から良質の土を軽便軌道で運んできて、厚さ9cmくらいに敷くという方法をとりました。

 一方、泥流の深さが30cm未満であるところは、泥流土を一部残して取り除き、健全な土と泥流土をプラウで混ぜる作業が行われました。客土や除去は翌年に完了し耕作が始まったものの、一部地域ではさらに客土を繰り返す必要がありました。こうした苦労を経て1933年、ようやく最適な土壌になりました。

上富良野町で二回開拓が行われた理由

 このように、上富良野地区では大正時代の十勝岳大噴火を境に、再びゼロからの開拓が行われたといっても過言ではありません。こうした先人たちの苦労を学べる北海道遺産選定「土の館」は上富良野町にあります。10カ国115点の土壌断面標本(モノリス)、農機具としてプラウ(洋犂)19点、スキ(和犂)68点を展示、別館にトラクター博物館が併設されています。

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