学ぶ

缶詰工場発祥地北海道

 道内は日本初の西洋式缶詰工場があったところ。缶詰が多く生産された 地域の一つです。今回は缶詰に関するお話。最初は鮭でしたが、蟹に変わ っていくんです。そしてあの「蟹工船」にも関係ある話です。

明治時代前期の缶詰は「鮭缶詰」

 日本で缶詰の本格生産が始まったのは1877年10月10日のこと。この日、 石狩市石狩川河口に「開拓使石狩罐詰所」が開設され、石狩川で獲れた50 尾の鮭を使って缶詰の生産を開始しました。これは実は日本初の西洋式缶 詰工場で、缶詰工場発祥地でもあります。そして、現在「缶詰の日」とし て制定されてもいます。

 開拓使という名前があることからもわかるように、開拓使が主導した事 業でした。工場は官営工場。当時は石狩地方で鮭が多く獲れていたことか ら、アメリカからお雇い外国人(トリートとスウェット)を招いて技術指導、 製造を行いました(前準備にクラーク博士も加わった)。その後開拓使は根 室地方や択捉島などにも缶詰工場を開設していきました。

 すぐ後には工場は藤野辰次郎に払い下げられたりして、民間経営の缶詰 工場も登場します(石狩缶詰所は1907年閉鎖)。このころ(明治時代)には道 内本土や国後択捉などで、鹿肉缶詰工場、ホッカイシマエビ缶詰工場なん かもあったとされます。当時は値段が高く高級品だったため、主に輸出向 けでした。

明治時代後期の缶詰は「蟹缶詰」

 しかし、その鮭缶詰も衰退していきます。原因は根室近海のサケマス漁 不振。そこで別の原材料として、択捉島や国後島近海で多く獲れるものの 廃棄されてきた蟹に注目します。1904年、和泉庄蔵と碓氷勝三郎は国後島 にて国内初の蟹缶詰を生産、蟹独特の身の酸化問題を頭脳的に解決し(現在 もその応用が用いられている)、翌年から本格生産に入りました(この碓氷 勝三郎は現在も根室市で続く碓氷勝三郎商店の創業者で、この時期の蟹缶 詰生産で財を成した)。

 この蟹缶詰工場は飛躍的に伸び、根室地方(千島を含む)に工場がほとん ど建設され、国後島にその半数が集まっていました。明治末期までに約50 のタラバガニ缶詰工場があったとされています。大正時代には全国の約7割 の缶詰は北海道地方で生産されていました。

「蟹工船」

 この流れで登場したのがきっと聞いたことがあるはず「蟹工船」です。 これは蟹を漁獲する"旅"に出かけ、蟹を漁獲し缶詰にするまでの一連の 業務を行う、1921年から1943年まであった海に浮かぶ蟹缶詰製造工場。 当初オホーツク海や北方領土、1923年からはカムチャッカでも操業される ようになりました。船体は病院船など古い船が再活用されており、川崎船 という小型船を数隻積載していました。

 地獄船と揶揄されてきたその過酷な労働は、プロレタリア文学の代表作 家、小林多喜二の「蟹工船」に詳しく掲載されています。乗り込んだ漁夫 や雑夫は安い賃金で、寒い中、病気になったり、不潔極まりないところで 生活したり、虐待されたり労働時間4:00~22:00・睡眠時間3時間半(函館 大菱商会博愛丸に代表される)といった酷使がなされていたようです。

蟹工船(小林多喜二)を読む

戦後の蟹缶詰工場

 戦後。北方領土を失った根室。漁場や缶詰工場のほとんどが北方領土に あったことで大きな痛手となり、漁獲量は減少、根室にわずか5工場を数え るだけになってしまいます。しかし、北方領土の海域に入り操業するもの も多くなり、戦後10年後には缶詰工場も30工場にまで増加しました。

 しかし再び、1977年の200海里漁業水域によって、タラバガニ漁業は大き く衰退、ということは蟹缶詰工場もやっていけなくなりました。こうして、 根室地方での蟹缶詰生産最盛期は終わりを迎えたのです。

 1950年代に釧路でクジラ缶詰工場が多く見られクジラ缶詰もありました。 現代では、缶詰の歴史でも古くからある鮭・蟹のほか、サンマなどの水産缶 詰が道内で生産されており、ほかに観光地で見かける鹿・熊・トドといった 缶詰まで出回っています。

筆者について

編集部

編集部

北海道ファンマガジン編集部。編集部スタッフが取材執筆した記事や、名前を出さないライターの記事、寄稿記事の掲載の際にもこのアカウントが使われます。