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常盤村はなぜ音威子府村になったのか―長い難読村名になった理由

人口1,000人を割り込み、700人台(2018年末現在)となっている上川管内北部の音威子府村(おといねっぷむら)。難読地名の筆頭に挙げられるこの村は、かつて「常盤村」と呼ばれていました。なぜ、村名を改称したのでしょうか。

鉄道の街として発展した音威子府

音威子府村の地名は古い文献にも記されており、『松前地並西蝦夷地明細記』(1797年)に「ヲトヱ子フ」と表記されているのが最初です。明治時代に入ると、1904年(明治37年)に現在の咲来地区に駅逓所が開設され、これが村の開基となっています。翌年以降小作人が入植し、農地開拓が行われていきました。当時はまだ、天塩川下流域の中川村(現・中川町)に属していました。

▼北海道命名之地があるのも音威子府村
常盤村はなぜ音威子府村になったのか―長い難読村名になった理由

村発展の転機となったのは、1912年(大正元年)11月の国鉄天塩線(現・宗谷本線)延伸開通。咲来駅と当時の終着駅となる音威子府駅が開設され、1914年(大正3年)11月にはのちに天北線となるルートが延伸開業、1922年(大正11年)11月に天塩線(宗谷本線)が延伸開業し分岐駅になると、交通の要衝として発展していきました。

鉄道の街として発展していく中、1916年(大正5年)には中川村(現・中川町)から分村し、中川郡常盤村が成立。当時、役場は咲来市街に設置していましたが、1925年(大正14年)11月には急速な発展を遂げていた音威子府市街に移転しました。

▼鉄道の街として発展した音威子府の中心駅、音威子府駅
常盤村はなぜ音威子府村になったのか―長い難読村名になった理由

駅名のほうが有名になって混乱

アイヌ語地名にちなんで、一市街地の名称として開業時に付けられた音威子府駅(1912年)。一方、開業間もない咲来駅・音威子府駅とは関係のない名称を分村時につけてしまった常盤村(1916年)。このことが、後に村名改称問題に発展していきます。音威子府駅の知名度が、常盤村のそれを大きく上回ってしまったのです。

村名改称世論調査では、「常盤村というと暫し地理的説明を要する不便がある」「認識が薄いため陳情・請願の際に取り残される点が多い」「郵便物および金券が(存在しない)音威子府村長宛や常盤局扱となって遅延することがある(郵便物が完全な宛名で来たことがない)」「近隣町村住民の他はほとんど常盤村の存在を知らない、自動車で国道通行時に音威子府を尋ねる人が多い」などの理由が挙げられており、駅名に対する村名の知名度不足により、郵便物や来客を始めさまざまな不便や混乱が生じていることが綴られています。

改称案としては、中心市街・役場所在地の駅名と一致させて音威子府村とする案が妥当とする声が多く、その理由としては「道内にも常盤という地名が多くあるので」「常盤村という時代遅れの名称よりは良い」「駅名を常盤にすると他にもあるので不可能、仮に天塩常盤駅としても今後知られることが容易ではない」などが挙げられました。

▼音威子府中心部の住宅街
常盤村はなぜ音威子府村になったのか―長い難読村名になった理由

反対の代表意見としては、「常盤村という愛称の歴史は簡単に変更を許されない」「音威子府という字体が気に食わない、語呂が悪く書きづらい」「咲来村のほうが通りが良い」「わざわざ長い村名にしなくても新しい村名を見出すべき」があり、駅名の方を改称すべきという意見もありました。

同世論調査では、移転前の村役場所在地である咲来地区では反対意見が多数を占めていたものの、賛成345、反対142と賛成が圧倒的多数の結果となりました。世論調査が実施された1961年(昭和36年)当時も、音威子府地区と咲来地区の対立構造が残されていたことも明らかになりました。

このような経緯を経て、1963年(昭和38年)4月1日、常盤村を音威子府村に改称することになったのです。2013年には村名改称50周年を記念したイベントが開催され、記念列車が運行されました。音威子府駅には常盤軒というそば屋もあります。鉄道の街として発展した歴史、村民の村名改称への思いが、現在の音威子府村を作っているのです。

参考文献:『音威子府村史』

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