浜中町の霧多布(湯沸)は島なの?半島なの?どちらが正解なの?

突然ですが、地図で浜中町を開いてみてください。浜中町役場が置かれている市街地は、太平洋に突き出た霧多布に広がっています。両側は湾になっており、函館市の函館山のように本土とつながっているように見えます。

さて問題です。この霧多布(湯沸)は島なのでしょうか、それとも半島なのでしょうか。地図にははっきりと標記されてませんし、資料によって呼び方はばらばらです。果たして正解はあるのでしょうか? 今回はその謎に迫りました。

※地名について:霧多布は資料によっては陸繋砂州(霧多布砂州)またはトンボロ(陸繋砂嘴)と呼ばれており、その先の台地は開析台地(霧多布島/半島・湯沸島/半島)または地元では湯沸山(標高約46メートル、霧多布温泉ゆうゆのある場所)とも呼ばれます。東西約5キロ、南北約1.4キロ、周囲約13km。

島と半島の定義とは

島と半島の違いとは何でしょうか。四方を水に囲まれていると島、三方が水に囲まれている(海に向かって長く突き出している)と半島、先端部が海に突き出しとても小さい場合は岬と呼ぶこともあります。公的には明確な基準は特になく、呼び方は慣習的なものであったり地域性によるものです。

では国土地理院の地形図ではどうなっているのかというと、根室半島など大きい半島は地形図に標記するものの、小さい半島までは特に標記しないことになっています。霧多布についてははっきりと決まっているわけではないとのこと。地形図にも地名(霧多布)と二つの岬(霧多布岬とアゼチ岬)の標記はあるものの、島や半島の標記は見当たりません。

霧多布の場合は、市街地のある台地や岬へは霧多布大橋を渡らなければならず、四方を海に囲まれているのは明らかです。また、ブリタニカ国際大百科事典や日本大百科全書(ニッポニカ)も島として紹介しています。では、なぜ霧多布半島と呼ばれることがあるのでしょうか。

浜中町史を調べてみた

地元、浜中町では何と呼ばれているのでしょうか。決まった呼び方はあるのでしょうか。町の観光パンフレット、町の公式ウェブサイト、町政要覧、町議会議事録では半島の標記が多いように見受けられます。浜中町役場によると、町としてはどちらが正しいか答えが出ていないため明言はしないが、参考資料として町史では両方の標記があると教えてくれました。

『北海道の地名』「霧多布島」によると、「『蝦夷巡覧筆記』には『ヒハセ』(琵琶瀬)の項に『沖ニ島ニツ(中略)左ノ方ハキイタツフト伝。此島ニ木有水ヨシ。大船此島ヨリ水取ル。運上屋ヨリキイタツフ島迄舟路半里程。島ノ長二里程』。『北夷談』には『此所海岸より沖へ弐拾町余も離れ、小嶋あり。此嶋をキイタツフ嶋と伝』とある」などと記述されていて、霧多布島が周囲の島々との関係においては本島とみなされていたようです。

『浜中町史』や『新浜中町史』には、霧多布島(湯沸島(とうふつしま))、霧多布半島の両方の標記が混在しており、どちらが正解かという答えは出ませんでした。しかし、そもそもなぜ両方の標記が混在してきたのかについて、ヒントになりそうな事実は記録されています。

1960年5月23日(日本時間)南米チリ中部沿岸で発生した地震に伴う大きな津波が太平洋を渡って5月24日、日本の太平洋沿岸に到達しました。こう記されています。

「浜中湾と琵琶瀬湾の両方から繰り返し来襲した津波は、北海道本土と砂州でつながり半島をなしていた霧多布半島の地形を幅100メートル、深さ8メートルにわたって深くえぐり、半島は島に様変わりした」

ここにはっきりと「半島をなしていた」が「半島は島に」変わったと記録されています。つまり、もともと半島だったところに、津波が半島の根元を襲ったため、本土と分断されて島になったというのです。確かに、戦後に米軍が撮影した空中写真と1961年以降の空中写真を見比べると、明らかに地形が変わっていることが見て取れます。

▼1947年9月20日米軍撮影(国土地理院提供)

▼1953年6月23日米軍撮影(国土地理院提供)

▼1974年9月21日国土地理院撮影(国土地理院提供)

▼1978年10月18日国土地理院撮影(国土地理院提供)

▼2005年9月20日国土地理院撮影(国土地理院提供)

ではチリ沖地震によって、霧多布半島の根元はどのようにえぐられたのでしょうか。

両側からの津波によって分断された霧多布

浜中町の記録では、4:40の浜中湾からの津波に始まり、11:33の琵琶瀬湾からの津波まで、両側から計12波の津波が記録されており、浜中湾側から8回、琵琶瀬湾側から4回あったことがわかります。波の高さは4.3メートルほどで、低地の湿原地帯であった本土側も大きくえぐられました。これにより霧多布市街は完全に浸水、孤立した状態になり、甚大な被害が生じました。

この津波とその後の潮流による侵蝕の影響で、半島の根元地区は水道に。海水が琵琶瀬湾と浜中湾とをつなぎ、半島を根元から切断し島状に分離させてしまいました。この地区は、ちょうど本土側の沼地から流れてきた古い川の出口に当たり、その川の砂の堆積で陸化しただけという地形でした。その最も低く弱いところに津波が押し寄せ削り取ってしまったというわけです。

再び島に戻った?

1960年のチリ沖地震の津波で島になった光景を見て「50年前の状態に戻った」と地元で話されていたことから、半島はそれ以前にも島状態であったとされています。

それを示すのが、浜中湾と琵琶瀬湾を結ぶ水路にかかる霧多布大橋の歴史です。この橋は最初、明治時代の1887年に霧多布橋(初代)として架橋されました。1960年のチリ沖地震による津波で流失しましたが、直後に仮橋を建設。翌1961年に永久橋として霧多布大橋が再架橋、2000年にアーチ橋として架け替えて今に至っています。

陸続きであれば橋を架ける必要はありませんが、明治時代に初代の橋が架けられたのは、霧多布が当時 島であったからにほかなりません。もともと島だったので、江戸時代には霧多布島と呼ばれていました。天然の良港であったことに加え、当時から水が豊富で井戸や水取場があったことから、島に人が住むようになったとされています。

また、本土側の地層の堆積物からは、過去にも津波の被害にあっていることがわかっています。もしかすると霧多布は歴史を通じて島から半島に、半島から島にと何度か地形を変えてきたのかもしれません。

※なお、チリ沖地震の8年前にあたる1952年3月の十勝沖地震の津波では、琵琶瀬湾側からの波が砂州を超えたものの、完全に島に分断されずに済みました。チリ沖地震ののち町は総延長18キロメートル、高さ3メートルの防潮堤を整備しました。

湾と湾を結ぶ水道があり、大橋が架けられており、海で囲まれるという定義でいえば「霧多布島」が正解でしょう。町史でも「半島が島になった」とはっきり記述されています。しかし地元では、上述の歴史背景があるため「霧多布半島」と呼ぶことが慣習上定着しているのかもしれません。

参考文献:浜中町史、新浜中町史、チリ地震津波調査報告書(1961年、建設省国道地理院)
空中写真提供:国土地理院