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網走・池北線ダイヤの歴史:ふるさと銀河線

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 ここでは、網走線、網走本線、池北線、そしてふるさと銀河線になるまでの路線のダイヤ、及び列車運行状況の変遷をまとめたものです。時代ごとにおっていきます。このページでは池北線まで、次ページでふるさと銀河線についてまとめています。

1910年淕別まで部分開業時

池田→淕別
9:20→13:22
13:22→16:55
16:13→19:45
淕別→池田
5:00→8:30
8:20→11:55
15:20→18:50
 1910年に淕別(現在の陸別)まで部分開業する前から、池田~陸別間で運搬用貨物が運行していたとされています。1910年9月22日開業時のダイヤは、翌日付の北海タイムスに掲載され、池田~淕別間を1日3往復していました。

 朝5:00淕別を1番列車が発車し、池田に8:30に到着するダイヤ。淕別発はそのほかに8時台と15時台。池田発は9時台と13時台、16時台。所要時間は片道約3時間半かかっています。開業当時の駅は、池田、高島、勇足、本別、仙美里、足寄、上利別、淕別。

1912年網走まで全線開業時

池田→野付牛→網走
●8:00→10:05
7:00→13:10→15:15
12:30→17:40→19:29
16:00→22:09●

網走→野付牛→池田
4:40→6:40→11:28
●8:51→14:40
11:30→13:50→19:46
17:20→19:35●
※●印は野付牛発着
 1911年9月25日に野付牛(現在の北見)まで開業し、翌年1912年10月5日には網走まで網走線(同年末に網走本線に改称)が全通しました。全通時の1番列車はなんと4:40網走発。当時は貨物列車と客車を混在した編成で、客車は2等・3等の車両が連結されました(1等車両は北海道開拓時代にはあまりない)。

 なぜ、4:40網走発なのかというと、当時は石北線がない時代でしたので、池田・旭川まわりで札幌方面に行かなければなりませんでした。それで、池田で札幌方面へ向かう列車に乗り換える接続のために早朝早い時間に始発となっていたそうです。それでも、その列車が池田に到着するのは11時半ごろでした。

 全通時のダイヤは8本。野付牛を中心に、池田~野付牛間を運行する列車、野付牛~網走間を運行する列車がそれぞれ1往復、池田~網走直通が2往復で、合計3往復というのはこれまでどおりでした。また、貨車客車混在編成で、途中の駅で貨物の積み下ろし作業があったため、現在の倍くらいの所要時間となっています。池田~野付牛間で7時間ほどです。

 全通した1912年12月1日、網走本線に改称した直後のダイヤ改正が行われ、4時発という異常な早朝列車はなくなりましたが(7時台が始発)、8本運行3往復という状況は変化ありませんでした。概して、朝と昼と夕~夜の3往復でした。また、当時の池田~野付牛間の駅は、高島、勇足、本別、仙美里、足寄、上利別、淕別、小利別、置戸、訓子府、上常呂でした。

 当時はまだ蒸気機関車が現役の時代。客車は2~3両で、その他に貨車が十両程度つらなった編成でした。渓谷が連続して、工事の際も難所となった池北峠付近は、冬季になると運行も困難になったといいます。特に小利別~置戸間は、積雪が多いと運休もあったほど。

網走本線受難の時代

 その後本数も増えていきます。網走~池田~旭川の直通列車を導入するも不評に終わりました。1920年代に入ると、野付牛から湧別へ延びる湧別線、名寄本線の誕生もあり、野付牛からは網走本線の池田を経由するよりも、名寄本線の名寄を経由するルートのほうが近くなりました。さらに追い討ちをかけるように1932年に石北線が開通し、石北線がメインルートになっていきます。

※1947年ダイヤ
池田→淕別→置戸→北見
▲5:54→6:48
6:20→8:55→10:04→10:58
9:40→12:25●
13:30→16:00→17:15→18:09
18:30→21:09●

北見→置戸→淕別→池田
●5:47→8:21
7:11→8:29→9:32→11:38
●13:57→16:24
15:57→17:13→18:30→21:16
17:24→18:10▲(釧路方面発)
21:16→22:30▲
※●印は淕別発着
※▲印は置戸発着
 1933年7月1日ダイヤ改正では、網走発石北線経由旭川行き、函館行きが各1往復誕生。一方で、網走本線の池田~野付牛間は合計12本になりました。現在で言う釧網本線のほうにも延伸され、釧路発着も増えました。池田~淕別1往復、池田~野付牛は朝昼夕の3往復(うち1往復は池田~釧路)、淕別~釧路は1往復、置戸~野付牛は1往復。淕別~置戸間は1往復少ない状況で、廃止までこの区間の運行本数の少ない傾向は続きました。

 1944年12月ダイヤ改正。このころには網走本線の北見~網走間は石北線の一部として組み込まれるようになっており、池田~北見間はこの区間だけの運行がほとんどになってくるようになります。ここまでで大誉地、川上、境野の各駅が新設されました。

 1945年の戦後になると、愛冠、日の出など各駅が新設されていきますが、本数が激減します。部分運行も含めて4往復に。1947年に往復で11本になりますが、それでも池田~北見間の直通列車は2往復だけでした。

 1950年代に入ると、北見はすでにオホーツク圏トップの人口を占める都市に発展しており、北見近辺の住民も増え、部分的に利用客も増えることになりました。それで1951年から置戸~北見間のみ5往復に増やし、1955年8月20日のダイヤ改正以降、レールバスと呼ばれるディーゼルカーを8往復運行し、置戸~北見間のみ合計13往復まで拡大されました(訓子府発着もあった)。

池北線時代

1962.10上り
準急第一池北
陸別発7:38
帯広着9:25
準急第二池北
北見発13:40
帯広着16:47

1964.10下り
準急第一池北
帯広発8:26
北見着11:35
準急第二池北
帯広発18:17
陸別着20:07

急行誕生下り
急行池北1号
帯広発8:29
北見着11:36
急行池北2号
帯広発17:50
陸別着19:37
 1961年4月1日、網走本線は池北線に格下げとなり、池田~北見間のみとなります。1962年10月1日のダイヤ改正で、初めてディーゼル車(キハ22)による定期準急が導入されました。準急「池北」です。準急は1日2往復し、それぞれ「第一池北」「第二池北」と命名されました。

 いずれも帯広駅発着で、陸別か北見まで運行しました。第一池北は帯広~池田間が準急ぬさまい(帯広~釧路)と併結され、池田からの途中停車駅は本別、足寄、陸別、置戸、訓子府でした。所要時間は帯広~陸別間は2時間弱、帯広~北見間は3時間強となっていました。編成は基本的に2両編成。

 それに同時に、池田~陸別間で本数が倍増しました(置戸~北見間は変動なし)。陸別~池田間は上り5本から10本に、下りは5本から11本に増大しています(うち1往復は池田~足寄間)。また、このころには、帯広や新得までも運行しています。ちなみに池田発朝1番列車が5:23ですが、急行誕生時代には4:55発ととんでもない早朝運行に変更しています。

 1966年3月5日、準急池北は急行「池北」へ格上げされました。1日2往復はこれまでどおりで、「池北1号」「池北2号」と名づけられました。運行時間も運行区間もほぼそのまま。一時期は陸別どまりの急行で、北見まで普通運行するものもありました。しかし急行の運行も1980年10月1日をもって廃止となってしまいました。1971年に陸別発着の急行がすでに廃止されていたので、急行廃止当時は1往復だけでした。

 1970年代の普通列車は、池田~北見直通は4往復、池田~陸別どまりが4往復、置戸~北見が5往復、訓子府~北見が1往復という運行状況でした。また、この時期にはすでに、普通列車でも幾つかの無人駅を通過するシステムが出来上がっています。1980年の急行廃止時のダイヤでは、池田~陸別、置戸~北見間の1往復がなくなっています。

網走・池北線ダイヤの歴史:ふるさと銀河線  輸送量に関して言うと、かなりの激減振りで、1960年代の輸送人員、輸送貨物量はたった5年間で半減したとされています。その後も益々減少傾向は続き、80年代に入ると池北線廃止の動きも明るみに出てきます。1982年3月には置戸駅で貨物取り扱いを終え、池北線の貨物輸送もENDとなったわけです。1970年の輸送人員実績は266万人ですが、15年後には141万人にまで減少しました。

 JR池北線廃止のとき。JRとしては短命でしたが、国鉄網走本線時代をあわせると80年以上も活躍した池北線は、6月3日、池田駅2番ホームでお別れ式を行い、幕を閉じました。


網走・池北線ダイヤの歴史:ふるさと銀河線
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