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青森管轄だった松前・東京管轄だった根室

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 北海道ではかつて、道外の府県の一部(管轄)となっていた地域が存在します。それは道南の一部、道東の一部で、それぞれ青森県(当時は弘前県)、東京都(当時は東京府)に一時的に属しました。どうしてそうなったのでしょうか、いきさつを探りました。

青森の管轄だった松前・江差

青森管轄だった松前・東京管轄だった根室  道南の松前半島の一部も道外管轄だった時代があります。もともと、1871年7月14日の廃藩置県で、松前・江差等を領有していた松前藩あらため館藩が「館県」となり、道内他地域とは独立して設置されたのがはじまりでした。

 館県に所管されていたのは爾志郡、檜山郡、津軽郡、福島郡の4郡でした。爾志郡は現在の乙部町や八雲町熊石、檜山郡は現在の江差町や上ノ国町、厚沢部町が含まれます。津軽郡には現在の松前町、福島郡には現在の福島町と知内町が含まれ、現在は松前郡及び上磯郡の一部になっています。

 さて、知内~松前~江差~熊石間の日本海側で構成される館県は、1871年9月、突然、なぜか道外の弘前県(現在の青森県)と合併することが告示されました。

 当時の北海道では、館県以外の道内他地域は開拓使所管地域になっていましたが、開拓使は館県編入を拒んでいました。旧松前藩主が県知事辞職したばかりの館県は県政を維持できず混乱、結局津軽海峡を渡った弘前県との併合を模索せざるを得なかったというわけです。

 同年12月には青森県福山支庁が松前に設置され、一時的に青森県の一部となっていた松前・江差ですが、約1年後の1872年10月、これらの地域は青森県所管から開拓使函館支庁所管になり、はれて北海道全域が開拓使の管轄になりました。

 このような決定に至ったのは、青森と松前を直接結ぶ船もないことから連絡が合理的でないこと、城下町でなくなった松前では商業が衰退し、不況の波が襲ったことなどの要因で、明治政府も開拓使への編入を水面下で進めていました。

年表
明治2年6月24日 版籍奉還、旧松前藩主を館藩知事とする
明治4年7月14日 廃藩置県発布、館藩が館県となる
明治4年8月4日 知事松前兼広が知事辞職布告
明治4年8月22日 知事ら松前を去り上京、今後について政府と開拓使が協議
明治4年9月9日 館県(爾志郡、檜山郡、津軽郡、福島郡)の弘前県(青森県)併合布告
明治4年9月23日 弘前県が青森県へ改称
明治4年12月9日 青森県福山支庁が松前に、出張所が江差に設置される
明治5年9月2日 開拓使が旧館県の編入を決定
明治5年9月20日 開拓使への旧館県編入認可、開拓使函館支庁へ編入へ

東京の管轄だった根室・別海

 明治初期の1870年のこと、北海道11国86郡が設定された直後だった北海道で、一部東京に編入されたところがありました。それは、道東の端、根室でした。

 当時は府制施行で東京府と呼ばれていた東京都ですが、歴史を見て見ると、1869年に東京府の550人を函館と根室と宗谷(稚内)に移動させました。北海道開拓と銘打って、失業対策の一環でその一部である根室を東京府に編入してしまおうという施策がとられました。

 それは1870年7月10日のことでした。当時の根室国の3郡、つまり根室郡、花咲郡、野付郡が東京府に編入されました。現在の根室市、別海町のエリアが該当します。当時の根室周辺は特に漁業を中心に繁栄していました。

 北海道開拓判官を任じられていた松本十郎は、この決定に異議を申し立て、職をとして抗議しました。結局東京府は、約半年後の12月1日に根室国3郡所管を廃止し、開拓使(根室開拓使出張所)管轄に復帰しました。

年表
明治3年6月12日 根室国花咲郡・根室群・野付郡の3郡が東京府へ編入
明治3年閏10月9日 東京府管轄を解消、開拓使管轄へ

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