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松前藩時代のアイヌとの交易

 コシャマインの戦い、シャクシャインの戦い、クナシリ・メナシの戦い。 蝦夷地時代に起きたアイヌの反乱は数知れませんが、その代表的なもので す。アイヌの人たちの怒りを買ったのは、特に和人による不公平な交易が 原因というパターンが多かったのが事実です。今回はその松前藩とアイヌ との交易の歴史を追います。

夷狄の商舶往還の法度

 アイヌとの交易は江戸時代初期にはすでに行われていました。乾燥鮭、 ニシン、白鳥、鶴、鷹、鯨、とど皮、とど油などをアイヌ側が提供、米、 小袖、木綿と交換していたようです。しかし、1457年のコシャマインの戦 いをはじめとする反乱・蜂起があったことからもわかるように、当時道南 域にのみ生活していた和人とアイヌの人たちの間には、問題が絶えません でした。

 そんなわけで、蠣崎季広のとき、1550年にアイヌと講和を締結。道南東 部酋長にチコモタイン酋長、道南西部酋長にハシタイン酋長をそれぞれ任 じ、上ノ国天の川と知内川間を結ぶ線を和人地・蝦夷地境界線としました。 これらの酋長を「蝦夷役」といいました。

 そして1552年には、道外と行き来する商船から徴税し、一部をそれら酋 長に配分するという制度「夷狄の商舶往還の法度」をつくりました。これ により、アイヌと和人との間にある程度の平和な関係が作り出されました。

商場知行制スタート

 1604年に江戸幕府・徳川家康は黒印状を松前藩に与えて、蝦夷地での交 易独占を許可しました。本州の藩とは異なり、米を得ることができなかっ たので、アイヌとの交易が専らの収入源でした。これにより蝦夷地独特の 「商場知行制」「場所請負制」が広まることになりました。

 交易の物々交換は、たとえば、干鮭100本と米一俵という感じ。後に米の ほうの量が減らされていき、最終的に半分以下にまで一方的に不平等交換 レートを設定し、アイヌの人を苦しめていきました。

 1630年ころに成立した制度が「商場知行制(あきないばちぎょうせい)」。 アイヌの人たちが道外・ロシアとの自由交易を禁止され、知行主という立 場の人が誕生します。松前藩により、交易権が与えられた家臣、つまり知 行主は、蝦夷地61箇所の交易地、つまり商場、場所を管轄し、アイヌと交 易するようになりました。年1回に知行主は場所へ行ってアイヌと交易をし、 品物を商人に売却しました。

場所請負制の普及

 1720年ころになると場所請負制が普通になります。松前藩から場所を与 えられた知行主が、今度は商人たちに交易を委託することにした、という もの。その代わり、知行主は請負人から運上金を徴収するようになりまし た。理由は知行主の財政難だといわれています。

 場所請負制はさらに進化を続け、今度は場所ごとに拠点をつくるように なります。これを運上屋(運上家)といいます。場所を任された商人が支配 人・通辞・帳役の3役と番人を置いて、管轄しました。蝦夷地にはこうした 運上屋が80箇所以上設置されたとされています。

 商人が漁業に携わるようになると、今度はその労働力としてアイヌの人 たちを酷使するようになりました。この場所請負人運上屋の酷使に立ち上 がったのが国後と目梨羅臼のアイヌの人たちで、これが1789年に起きた 「クナシリ・メナシの反乱」です。国後泊村の場所請負人飛騨屋の運上屋 が襲撃され22人が殺害されたのです。

場所請負制の廃止

 1799年に東蝦夷地の場所請負制を廃止、運上屋を会所と改めて、1812年 に松前藩に戻されるまで江戸幕府が直轄しました。その後入札で場所請負 人を決定するシステムに変更されました。

 本当に廃止の方向へ向かうのは1858年のことで、石狩、長万部、小樽な どが村並(つまり道外の村と同格)に置き換えられ、その先駆けとなりまし た。つまり、道内の村の発足の歴史には場所請負制が深く関係していると ころもあるというわけです。正式に廃止されたのは、明治政府により開拓 使が設置された後の1869年10月のことでした。

 ただし、漁場の場所については「漁場持」が続けられました。この漁場 持も廃止されたのは1876年9月でした。また、運上屋は政府に引き取られ、 会所、番屋などに代わりました。ちなみに、場所請負制で本州と蝦夷地を 行き来して物品を運んだのは、いわずと知れた「北前船」です。

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