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北海道史1はじまりはじまり~

 このページは5ページにわたって、北海道の歴史について調査し概略をまとめみたものです。北海道は本州に比べて歴史が浅いといわれますが、それは開拓が遅かっただけ。実は調べていくと本州の縄文~弥生時代に縄文もあったしオホーツク文化っていう発達した文化もあった、後にはアイヌ民族の文化もあった……けっこう長い歴史があるんです。そんなこんなで読ませる気がまったくないようにも見える(?)以下の歴史をながながとご覧下さい。なお、重要箇所は太字になっていますのでそこだけでも追っていくとだいぶ違うのでは?赤ペンよぉ~い……笑

旧石器時代・縄文時代(道南・道央・道東)

 旧石器時代の出土や縄文時代の貝塚発掘など北海道にもかなり古い歴史があります。特に噴火湾の伊達市・洞爺湖町・豊浦町・森町などには貝塚が多く国内有数の貝塚地帯となっています。縄文後期では函館市南茅部の遺跡群が有名で東北の三内丸山遺跡をもしのぐ規模。環状列石といった遺跡は北海道では道北をのぞき全域で見つかっている状況です。

 その縄文時代は紀元前1世紀ごろ続縄文文化へ引き継がれ、本州での弥生時代・古墳時代を経て、奈良時代の8世紀まで続きました。そして農耕というよりも海岸沿いや河川沿いの漁業が主な生活でした。寒冷期もあり、この時期には東北へ南下していく傾向がありました。先史時代のまとめはこちら

オホーツク文化(道北・道東)

 そんな中5世紀から10世紀にかけて、オホーツク海沿岸に縄文文化とはまったく異なる高度な海獣狩猟と漁業の文化が誕生、一般にオホーツク文化と呼んでいます。アムールやサハリン方面からやってきたと考えられています。この遺跡は利尻礼文や稚内、そしてオホーツク海沿岸部(知床・標津・根室・国後択捉を含む)に散在しています。中でも枝幸町の目梨泊遺跡に見るようにここには最大の集落があったようです。オホーツク文化のまとめはこちら

北海道が初登場!

 北海道について記録されている最古のものは「日本書紀」であり、阿倍比羅夫(あべのひらふ)が遠征を行ったとかかれています。658年から3年連続で北海道へ渡ったようです。「渡嶋蝦夷(わたりしまのえみし)」と称される集団が初登場するのもここ。659年には後方羊蹄(しりべし)に政所を置いたと記述されています。3回目は渡嶋蝦夷を援助し粛慎(あしはせ)と戦いが起こり打ち破ったとされています。当時は道南や道央を指して(または北海道全域を指して)「渡嶋」とされていました。

擦文文化(北海道全域)

 擦文文化とは、続縄文文化に続いて起こった文化で12世紀までに北海道全域に広まったようです。基本的に続縄文後期の文化と同じで、河川中・下流域に集落を形成しました。特に住居跡が本州のものとほぼ同じで、本州の文化を多く受け入れた文化ということが出来ます。

 ここで、石狩低地帯を中心とする渡嶋蝦夷が重要な役割を果たし、東北北部の文化、土器・鉄器・住居・古墳といったものを北海道にとりいれました。それ以降東北地方との交易が盛んになっていきました。お偉いさん方「夷首(えみしのかしら)」が台頭してきたのもこの時期でした。

アイヌ文化と和人支配

 11~12世紀以降は、擦文文化に続くアイヌ文化。本州の文化やオホーツク圏の文化の影響を受けつつ形成されていったようです。和人が移り住んでくるようになったのは12世紀ころからで、本州では鎌倉時代で鎌倉幕府などの流刑地とみなされていました。源頼朝に追われ脱出した先が蝦夷地、という人もいたようです。

コシャマインの戦い(道南)

 1454年から1456年には、蝦夷代官安東氏の子孫安東政季が渡り、渡島半島先端部を松前、上之国(松前以西から上ノ国)、下之国(松前以東函館)の3つに分ける「三守護体制」を施行し、それぞれに守護と副守護、その下に館主を置きました。

 しかし、その直後東部の首長コシャマイン率いるアイヌが蜂起し「コシャマインの戦い」が勃発、道南12館のうち10館を攻略しました。理由は、アイヌと和人の間の経済的不平等、函館東側の志濃里の鍛冶村で鍛冶職人がアイヌ少年とマキリ(小刀)のできをめぐって争いになって殺すという和人優位の事件や、三守護体制から外された旧館主たちの不満とされています。

 これ以降1525年まで70年くらい蜂起がたびたび起こりましたし、民族的対立も激化。コシャマインの戦いは結局、武田(蠣崎)信広が鎮圧し、彼が渡島半島南部のリーダーそして松前藩設置の基盤となりました。その後、渡島半島南部は和人集住地とし、この地区の支配を強化していきました。


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