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北海道史2松前藩成立

江戸時代、松前藩成立!(道南)

 豊臣秀吉が全国統一しようともくろんでいました。渡島半島南部を統治していた蠣崎氏子孫の慶広は、秀吉への臣従であり、秀吉の軍事動因として参加したりして、「直忠臣」として認められるようになりました。それだけでなく徳川家康と関係を育み、江戸幕府誕生の際には松前と氏を改めるようになりました。江戸へ参勤したり臣従の態度を示し、1604年家康から松前慶広宛に黒印状(領主権を保証する証書)が送られました。こうして松前藩が誕生しました。

 松前藩は農業を基盤とすることが出来なかったため、アイヌとの交易に依存しました。江戸時代初期には松前にアイヌの人たちがきて交易が行われ、乾燥鮭、ニシン、白鳥、鶴、鷹、鯨、とど皮、とど油などをアイヌ側が提供、米、小袖、木綿と交換していたようです。干鮭100本と米一俵といった交換比率でした。

 17世紀頃には、商場という交易地点が設けられて、そこで交換するようになりました。それでも交易船(藩士の使用人または代行商人)が来るのをアイヌの人たちが待つという和人主導のシステムでした。アイヌ側の和人との交易は主に、幾つかのコタンをまとめて代表する"総大将"が管理し行っていたようです。

シャクシャインの戦い(道央~道南)

 1669年に現在の新ひだか町の首長シャクシャインが、蝦夷地各地のアイヌを率いて蜂起、和人が多数殺され松前に向かって進撃していきました。それより20年も前のこと、静内川流域のオニビシ勢がけんかをしかけてきたため、同じ河川東部のシャクシャイン側は奇襲攻撃でオニビシを討ち取り、オニビシ側が松前藩に助けを求めてウタフを遣わしたものの帰りに病死。和人が毒殺したといううわさが流れ、シャクシャインが反松前藩への蜂起を呼びかけたものでした。

 しかしそれだけでなく、和人主導による不当な交易の不満もありました。交換する米の量を少なくし事実上値上げしたり、一束でも足りなければ翌年には20倍といったことが行われました。和人が漁を始めたり、「押買」という承諾なしに安い値段で無理やり買う方法も取られたりしました。それまで何度か松前藩への抗議・反抗がありましたが、今回は大規模なものとなりました。松前藩は鉄砲で対抗、アイヌ勢力を分断し、さらにシャクシャインを偽りの和議の場に呼び出し殺害、静内のチャシ(戦闘・祭用施設は攻め落とされ、シャクシャインの戦いは鎮圧されました。

 その後、各地のアイヌの人たちは、松前藩への服従や乱暴禁止、交換比率は干鮭100本と米一俵とするなどを定めた起請文で服従を誓わされました。それでもしばらくの間蝦夷地との交易もスムーズではなく、商船がほとんど来なくなってしまいました。まさに財政難になりました。

和人地拡大(道南)

 ところで、和人地(和人占拠地)と呼ばれる地域も拡大していき、1633年には函館東側の石崎を東端とし乙部までを区域としていましたが、1670年には北端が熊石まで、1800年には噴火湾の野田追までになり、和人地と蝦夷地の区分は厳格に定められました。蝦夷地は和人が住むことは許可されず、専ら交易のみでした。和人地での漁業は鮭、ニシン、昆布漁。この昆布は年貢の品のひとつでした。和人人口総計15000人。松前は当然中心でしたが、当時箱館とはかつての亀田川河口の亀田であり、東部地域の中心的存在であったようです。

クナシリ・メナシの戦い(道東・国後島)

 18世紀中期になっても、蝦夷地東部の根室や国後択捉といった場所では強力なアイヌ勢力があり、松前藩の管理も難しいものでした。そのころ、ロシア人の南下もあり、ウルップ島でロシア人を追い払った記録もあります。こうしてクナシリ・メナシの戦いが起こりました。

 国後との交易を推し進めるため請け負った飛騨屋でも、国後のツキノエらが拒否をし交易がなかなかスムーズには行きませんでした。やがて、交易開始後には鱒漁を大々的に行ってシメカスに加工するために過酷な使役を行うようになり、1789年のこと、国後島と道東のメナシ地方の各地で和人が殺害されるという事件が起こりました。

 松前藩の鎮圧軍が派遣されましたが、ツキノエや厚岸のイコトイといった首長たちは、飛騨屋の酷使に理解を求めるため松前藩に協力姿勢を示したものの、軍は首謀者らを殺害し、一部男女を御目見得蝦夷として人質のようにして松前に連行していきました。

ロシアやってくる

 ロシア側は日本との交易を求めてきたわけですが、ツキノエらは新しい役割を求めて両者の仲介役になろうとしました。それも一蹴されました。松前藩は根室や厚岸で直接ロシアの使節と応対しましたが、長崎以外で交易は出来ない決まりという回答をし、1回目の贈りもの返還と来航の労をねぎらう品を送りました。その後ロシア使節ラクスマンがネモロに来航したりイギリス船が接近したりしたこともあって、緊張が高まり、幕府により蝦夷地調査が行われることとなりました。

 さらに警備体制も強化され、南部藩がネモロ・クナシリ・エトロフ、津軽藩はサハラ・エトロフに勤番所、両者箱館を本陣とすると決められました。松前藩だけでは軍事力が足りませんでした。ロシアのカフラフト・エトロフ襲撃事件のあとには、これらに加え仙台藩・秋田藩・会津藩も警備させました。

アイヌ和風化政策

 これに際し、アイヌ民族は日本側に従うように教育しておくべきだとされ、場所請負制は廃止、交易も公正に行う、漁業労働は適正に幕府直営、などが定められることになりました。これをアイヌ和風化政策といいます。和語を用いさせ、かな文字を教える、日本風の風俗を教えたり、入れ墨だめ、家も服装も耕作させ穀食の推進などもありました。

 さらにロシアの接近でキリスト教が広められないように幕府は仏教を広めておかなければなりませんでした。そして松前藩では負いきれないとされ、松前家は一時的とはいえ陸奥国へ移動させられ蝦夷地も一時的に幕府直轄になりました。

和人流入

 東北地方で飢饉があった際、逃れてくる人も多く、しかも松前藩は米やニシン、鮭などを与えて手当てをしたようで、和人の餓死者はいなかったようです(ただし蝦夷地は飢餓)。さらに出稼漁民の定住化なども手伝って人口増加が続きます。特に3港のうち箱館は1800年に江差や松前城下を下回っていたものの、1860年までに江差・松前を抜いています。ただ、和人地はニシンもとれなくなり漁業不振に陥っていたので石狩にまで行っている状況でした。


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