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北海道史3箱館戦争から開拓使へ

箱館開港

 その後も引き続き異国船が接近し、厚岸では交戦状態になりました。ロシアの使節プチャーチンは長崎に来た際、国交だけでなく樺太・千島列島で国境確定交渉を求めました。ペリー来航の際には、下田と箱館開港を了承、1854年条約調印後にアメリカ艦隊が箱館にやってきました。大事であり、停泊1ヶ月間は婦女子は外出しない、酒や呉服は目に触れないように、市内へ馬の出入り禁止、小船往来も禁止、異国船見物や覗き見すら禁止というお触書が出されたようです。

 外国船との交易は行わない取り決めだったものの、箱館奉行は収入増を見込んでひそかに取引が行われていました。日米修好通商条約後は自由貿易が開始し、主に昆布の輸出を行いました。こうしてロシアやアメリカ、イギリスなどから外国人が箱館に流入していき、箱館は異国情緒あふれるまちに変貌を遂げていったわけです。それだけでなく、外国の新聞でとりあげられ世界に紹介されるようになった北海道で最初の地でもありました。

蝦夷地上知と開拓の基礎

 松前付近は警備体制が整っているものの、ほかは警備できていない現状を重く見て、松前藩領は松前を含め乙部~木古内までとし、ほかは幕府による領地とする宣言が行われました。箱館奉行の管轄となり、箱館付近の警備は松前藩。その他は分割統治され、おおまかにですが、南部藩(後志/西胆振/渡島北部)・津軽藩(檜山)・仙台藩(十勝/日高/東胆振/釧路/根室/北方領土)・秋田藩(宗谷/留萌)・庄内藩(石狩/空知/天塩/留萌)・会津藩(北見網走/知床)が分担しました。中でも石狩を重視したようです。

 このころ、水田もすすめられ、さらに蝦夷地への出入り禁止は解除され、移民導入促進と永住者増加対策を行いました。そして農業開拓を行うようになり、和人人口は急増していきます。和人人口が増えたところでは場所請負制を廃止して村の扱いをし、箱館奉行所直轄とするようになります。1858年に石狩、1864年に長万部や山越内、その後小樽といったところです。

 産業はほぼ赤字(最大は焼酎や五升芋)で、外国船への売却で石炭が目立って黒字でした(続いて養蚕)。この時期にその後の北海道開発の基盤となったものが数多くありました。

 箱館の防備体制も整える必要があり、この過程で五稜郭が誕生しました。幕末にはまとめ役としての請負人が誕生し、たとえばオホーツク沿岸の働き手はソウヤリシリに集めて使役、石狩では鮭やニシンの漁に使役し、その結果石狩川流域のアイヌコタンは壊滅状態になりました。

箱館戦争と松前藩版籍奉還

 松前藩は苦しくなりました。財政は難しく、蝦夷地産物は松前経由で移出されることになっていましたが、東蝦夷地産物は箱館経由だったので、収入も少ない状況でした。箱館開港といっても松前藩は外国人との取引が出来ず、弱体化していきました。

 幕末で混乱の時期を迎えました。英明とされた藩主崇広を失い、後継ぎは病弱な徳広、松前勘解由らの指導であったもの次第に反発が強くなり、1868年クーデターが起きました。松前勘解由らは殺害され藩政を改革したものの、箱館戦争が勃発してしまいました。

 榎本武揚ら旧幕府軍は1868年、当時日本最強軍艦海陽丸以下7隻の船を率いて噴火湾鷲ノ木に上陸、大鳥指揮の本隊は大沼、峠下を通って箱館へ、土方指揮の別隊は海岸線を鹿部、川汲と進み内陸を通って箱館へ。津軽や松前の兵を破り五稜郭占拠、「箱館府」知事の清水谷公考は青森へ逃げていきました。土方の軍はその後松前を目指し木古内、知内と進み松前で落城させ、松前徳広藩主の逃げた先の厚沢部の館城も松岡隊により攻略、そして熊石まで進軍し、藩主は津軽半島へ脱出するという事態になりました。こうして榎本は役職の公選により蝦夷地の総裁となり"蝦夷共和国"のようにも見えました。

 一方政府軍は青森から乙部・江差へそれぞれ上陸させ、まず松前城を奪回、ついに箱館付近の応戦となりました。ここで土方は戦死し、榎本は降伏、1868年に長期戦となった戊辰戦争はここに終結しました。

 松前藩は版籍奉還、1869年松前家は館藩知事になり、廃藩置県により館県となり、一時期青森県管轄になったことがありました

開拓使設置

 明治時代初期の箱館戦争後、避難していた清水谷が復帰、蝦夷地開拓に力を入れるとの政府の命により、1869年開拓使庁が東京の芝の増上寺に設置され、北海道と樺太、千島が管轄エリアとなりました。さらに松浦武四郎の原案から、蝦夷地は北海道と改称、11の国と86の郡の行政区画が誕生しました。さらに樺太開拓使も一時的に設置されています。

 1869年には箱館は函館となり、開拓使出張所を設置、ロシアの脅威や北海道開拓拠点の面から札幌には本府を設置する計画がありました。そして札幌へ開拓使庁は移され、現在の札幌市街区画の基盤が完成されました。また、海官所(海関所)を函館・幌泉・寿都・手宮の4箇所に設置しました。多額の予算(10年計画で1000万円)を投与して西洋の技術を導入するようにしました。黒田清隆が開拓長官になった際には薩摩出身者を集めて、アメリカを開拓のモデルとして北海道近代化へ向けて開拓がすすめられていきました。お雇い外国人としてアメリカのケプロン、地質のライマン、酪農業のダンといった外国人が開拓に関係しています。

 札幌農学校が設立されたり、新冠や根室などに官設牧場が設立されたり、農業の一つとして牧畜も進められることになります。さらに稲作についてはそれまで道南だけであったものが、島松で水稲試作に成功した後石狩を中心に稲作が広まっていきました。

屯田兵

 移民も多く受け入れ、1869年には東京で募集、500人が樺太や宗谷、根室といった地域に移住させました。特に廃藩置県で落ちこぼれの士族たちの中には、伊達藩伊達邦成の有珠地域移住をはじめ北海道移住を決意した人もいました。

 兵農両方を行う屯田兵制も定められ、琴似を筆頭に道内各地に兵村を設立していきました。屯田兵は土地や食料、農具などは給付されるものの生活は厳しいものでした。兵村数は37、戸数は7337、総人員は39901人でした。その後札幌に第七師団が設置されその管轄となり、屯田兵条例は廃止されました。


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