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謎が多かったインディギルカ号の悲劇とは?

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 道内で起きた海難事故の一つに「インディギルカ号」が挙げられます。死者数からして、道内で起きた外国船による事故では最大の大惨事だったといえます。

 インディギルカ号は、旧ソ連の貨客船でした。全長80m程度、4500トン。この船は、12月1日マガダン発ウラジオストク行でしたが、1939年12月12日未明に20mの暴風雪に見舞われ漂流、猿払村浜鬼志別沖1500mのトド岩に座礁し、沈没しました。

謎が多かったインディギルカ号の悲劇とは?

 この事故を知った猿払村民、および稚内から駆け付けた樺太丸等3隻が救出活動を行った結果、429人が救出されました。その中には船長、乗客と子供たちも含まれていました。しかし、それ以外の700人以上(702人とされる)は死亡したといわれています。

 2日後までに浜には400人の遺体が打ち上げられました。そのほか、船長が船内にはもういないと虚偽の報告をしたことから救助が遅れ、船内で凍死した人たちも収容されました。救出された人たちは12月23日に小樽からイリッチ号でソ連に帰国。座礁船は2年後の6月1日に爆破処理されました。

インディギルカ号の謎の解明

 救助された人たちの証言では、漁業関係者が秋の漁業を終えてカムチャツカ半島から引き揚げてくる途中だった人合計1064人が乗船していたとされました。しかし、正確な乗船人数は不明でした。

 ほかにも謎が多くありました。旧ソ連側が沈没船は要らぬ、遺体も収容しなくてよい、遺品も焼却するように日本側に伝えています。乗客には出稼ぎのはずなのに家族子供も帯同。乗客についても明らかにされず、旧ソ連政府が冷たい反応だったこと。

 こうした謎があることから、ソ連崩壊後、歴史学者が旧ソ連公文書を調べ、護送船だったのではないかとの説を打ち出しています。極東開発のため政治犯とその家族が船で送り込まれた囚人船であったとすれば、つじつまがあう、というわけです。

 旧ソ連はこのことを公式には認めていませんので、今も猿払村にある慰霊碑や資料では、漁業関係者が乗船していたということで紹介されていますが、当時は謎が多い不気味な海難事故として、新聞などで取り上げられました。

北海道関係の主な海難事故史

1878年 4月20日 瀬棚海岸沖で1877年11月19日に暴風で座礁・救助されたロシア軍艦アレウト号乗組員が、同軍艦エルマック号にボートで向かう途中転覆し12人死亡
1939年12月12日 猿払村で旧ソ連貨客船インディギルカ号座礁沈没し700人以上死亡
1945年 8月22日 三船殉難事件。第二次世界大戦末期に樺太引揚船が旧ソ連船によって攻撃され沈没した。小笠原丸は大泊から小樽に向かう途中留萌沖で潜水艦により撃沈され638人が死亡。第二新興丸も大泊から小樽に向かっていたが留萌沖で潜水艦により攻撃され229人死亡、200人近く行方不明。泰東丸は大泊から小樽に向かう途中小平町沖で潜水艦が攻撃し667人が死亡。公式記録では合計1708人死亡
1950年 9月19日 浜中町霧多布沖で捕鯨船が行方不明、21人も行方不明
1954年 1月28日 道内荒天で30日までに小型漁船が被害にあい、37人が死亡または行方不明
1954年 9月26日 洞爺丸台風で青函連絡船洞爺丸などが沈没、合計1430人が死亡世界有数規模の海難事故となった
1965年 5月23日 室蘭港でノルウェー船籍ヘイムバード号が桟橋に激突し原油に引火して爆発炎上、10人死亡、27日間燃え続けた
1985年 4月23日 漁船第七十一日東丸が樺太南部で沈没、8人死亡

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