上ノ国町の史跡「上之国館跡」とは?三館を巡って中世の歴史を感じよう

道南・檜山管内、江差町の南に「上ノ国町」があります。これに対する名称として「下ノ国」もあるわけですが、松前城下から見て広域的に、西海岸が上ノ国、東海岸が下ノ国でした。現在も、町名として残っているのは上ノ国町だけです。

そんな上ノ国は、松前・江差同様に北海道の歴史が詰まっている場所でもあります。特に室町時代、松前藩がなかった時代に、上ノ国天ノ川河口には3つの館(たて)が次々と築城されました。国指定史跡「上之国館跡」であり、2004年に北海道遺産「上ノ国の中世の館」として登録されたほか、日本城郭協会が2017年に「続日本100名城」に定めた、歴史的に重要な中世の山城跡です。

上ノ国三館は、築城の時代順に「花沢館」「洲崎館」「勝山館」です。これら史跡上之国館跡、および代表格となっている「勝山館跡ガイダンス施設」、「夷王山」とその周辺を巡って、北海道の夜明けの歴史を感じてみましょう。

上ノ国に中世の山城が築かれた理由

夷王山山頂から見る絶景

三館のひとつ、館山跡近くの夷王山(いおうざん)山頂に登ると、美しい曲線を描く湾を見渡すことができます。この、西に大きく付き出したシネコ岬から天ノ川河口部に至る大澗湾は船繋り(ふながかり)が良く、古くから湊として利用されてきました。この重要な湊を守るため、河口を望む周辺の丘陵地に館が築かれてきました。

上ノ国三館の位置関係図

松前藩の歴史を記した『新羅之記録』によると、室町時代の1454年に武将 安東政季(あんどうまさすえ)と武田信広(たけだのぶひろ)が蝦夷地に渡り、松前半島を中心とする沿岸部に12の館を設置しました。いわゆる「道南十二館(どうなんじゅうにたて)」です。目的は、北海道南部への進出拠点とし、領地支配を行うためでした。

東は志苔館(しのりだて=函館市)から西は花沢館(上ノ国町)まであり、配下の武将を配置。1456年には12館を松前、上ノ国、下ノ国の3地域に分割しましたが、上ノ国地区の他の館を統率する守護に任じられたのが花沢館館主の蠣崎季繁(かきざきすえしげ)でした。

(1)コシャマインの戦いで最後まで残った「花沢館」

花沢館跡

この上ノ国の地に最初に設置されたのが、道南十二館の一つ「花沢館(はなざわだて)」です。天ノ川河口から約800メートル南岸にある八幡野丘陵の斜面、標高約60メートルのところに立地していました。現在は国道沿いに位置しており、アクセスも良好です。

規模は南北に200メートル、東西は最大約80メートル。北向きの斜面に位置していたことから、敷地の標高差は約50メートルもあります。実際に訪れてみると、急な坂道を登ってたどり着くこと、敷地内を歩くにも、さらに斜面を登ることに驚きます。そして左右は沢のため、急傾斜の地形になっています。このような狭い場所によく館を作ったものだと感心します。

花沢館跡

花沢館の構造は、斜面ゆえに南北にかけて大小6段の階段状になっており、山頂の主郭は64メートル×20メートルと細長く手狭です。館の後方部に幅11メートル・深さ3.9メートルの堀があったこと、幅約2メートル・深さ約1メートルの空壕、幅約6.6メートル・高さ約1.3メートルの土塁が確認されています。

現在は木々に覆われて湾のほうの見通しはよくありませんが、天ノ川河口部はもちろん、その先の江差・熊石に至る海岸線を望むことができたことのでしょう。

花沢館跡から天ノ川方面を一望する

館主は蠣崎季繁。1457年にコシャマインの戦いが勃発すると、道南十二館は次々と陥落していきましたが、最後までに残った2館の一つが花沢館でした。客将として館主の補佐をしていた武田信広は、コシャマインを討って反乱を抑えました。武田信広はこの功績により、館主 蠣崎季繁の養女(安東政季の娘)の娘婿になり、新居として洲崎館を築城するのでした。

昭和20年(1945年)頃、花沢館の頂上部が耕作されたときに約2,000枚の銭が、1990年(平成2年)には館跡後方部から15世紀後半の珠洲焼(すずやき)のすり鉢が多数発見されました。発見された陶磁器はすべて15世紀代に造られたものであることから、勝山館が本格的に機能し始めた頃(1470年代)には廃城になっていたと考えられています。

国指定史跡 上之国館跡 花沢館跡
指定:1977年(昭和52年)4月12日
面積:28,839平方メートル

(2)勢力拡大の基礎を固めた拠点「洲崎館」

洲崎館内に創祀された砂館神社(提供:檜山振興局)

花沢館に続いて築城されたのが「洲崎館(すざきだて)」です。『新羅之記録』では「天河館」とも呼ばれています。この館は先述の通り、武田信広が1457年に築城しました(北海道の館の中で唯一、成立年代が明確)。『福山秘府』によると、築城時に一族が集まって建国の大礼を行ったと記録されています。

場所は花沢館から見て天ノ川の対岸、合流する目名川の北岸(現在の砂館神社)にあたり、標高1~15メートルの海岸砂丘に立地していました(その構造は不明な点が多い)。洲崎館は河口部の港を掌握し、蠣崎氏が上ノ国を日本海交易の拠点として、その後の勢力拡大の基礎を築いたと考えられています。

洲崎館跡内にある砂館神社(すなだてじんじゃ)は1462年に武田信広が建てた毘沙門堂が前身(1871年改称)。洲崎館の守り神として祀られるようになりました。この神社本殿は1778年の火災で焼失後、1779年に再建されました。現存する記録上、北海道の神社として最古のものであることから、歴史ある本殿は北海道有形文化財に指定されています。

発掘調査では、掘立柱建物跡や竪穴建物跡、2,500枚の銭、中国産の青磁・白磁、瀬戸産の壺、珠洲産すり鉢などが見つかりました。いずれも14世紀から15世紀にかけてのものですから、花沢館が廃城になった後、16世紀初頭まで機能したとされています。

国指定史跡 上之国館跡 洲崎館跡
指定:2006年(平成18年)3月31日
面積:57,754平方メートル

(3)後の松前藩の基礎を築いた重要な拠点「勝山館」

勝山館跡のメイン通り

武田信広は徐々に権力を握り、特に北海道西海岸の交易権を手に入れたことで、新しい拠点「勝山館(かつやまだて)」を築きます。上之国脇館(かものくにわきだて)、上ノ国館、勝山城とも呼ばれます。

築城年代は不明ながら、『福山秘府』によると北端の館神八幡宮が1473年に創祀されていることから、この頃に築城されていると考えられています。その後、16世紀末~17世紀初頭まで約130年間、存続しました。

勝山館はこれまでの館よりも大きく、標高もこれまでより高い場所に築城されました。夷王山(標高159メートル)の中腹です。熊石まで続く大澗湾の曲線と天ノ川の河口が美しく見える高さです。日本海に目を向けると奥尻島が浮かびます。

空堀には橋が架けられた(搦手門側)

武田信広は夷王山の斜面、標高70~120メートルに、長さ約270メートル・幅約100メートル、総面積20.9平方メートルにも及ぶ大きな館を建造しました。メイン部分は宮ノ沢川と寺ノ沢川の天然の要害に挟まれた丘陵地で、周囲に柵を張り巡らし、前後に空堀を設けました。壕の底の落差は8メートルほどあります。また、東の三段目には帯郭(おびぐるわ)と物見櫓があり、それに沿う二段目に館を守る兵士の小屋もあったことから、厳重な守りであったことがわかります。

構造は三段構え。メイン通りとも言うべき幅3.6メートルの通路が、館中央の堀に架かる橋から背後の搦手(からめて)門まで約180メートル貫いています。通路の両側には100平方メートルあまりの長方形の地割りが階段状に続いています。掘立柱跡と竪穴建物跡が残されており、それぞれに住居などが建設されていたことがわかります。

北端に設けられた館神八幡宮跡地

また、標高の低いところには約2000平方メートルの区画があり、大型の建物、鍛冶場、銅細工作業場などが建設されました。先述の通り北端には館神八幡宮が設けられ、空堀の外側にはゴミ捨て場、井戸などが見つかっています。また、東側の華の沢には倉庫群がありました。

本格的な調査は1979年(昭和54年)以降で、15世紀後半以降一世紀に及ぶ金属製品、陶磁器・漆器など約10万点あまりが出土。アイヌの人が使っていた骨角器も出土しており、和人とアイヌが混在していたことが推測されます。出土品のうち921点は国の重要文化財に指定されています。

国指定史跡 上之国館跡 勝山館跡
指定:1977年(昭和52年)4月12日
面積:353,924平方メートル

絶景を楽しめる夷王山と夷王山墳墓群

夷王山墳墓群

勝山館の後方、夷王山山頂までのエリアは中世和人の墳墓群「夷王山墳墓群」と呼ばれており、1918年までに数個発見、戦後1952年に調査で100基が確認されました。勝山館の後ろを取り囲むように6地区、650以上の墓のほか火葬施設が数カ所あります。勝山館を築いた武田信広一族やそれを支えた人々が眠っていると思われ、館は祖先に守られるように配置していたことがわかります。

それぞれの墓は2メートル×1.8メートル、高さ40センチほどの土饅頭で、直径は7メートルほどのものもあります。埋葬方法は様々。火葬した骨を箱などに納めて埋めたり、遺体を曲げて長方形の棺に納めて北枕に土葬したうえで、土や石を高く積んでいたりします。銭、漆塗りの器などが納められることが多く、大きな墓には硯(すずり)や玉なども納められていたことが判明しています。中にはアイヌの流儀で埋葬された墓もあります。

夷王山の山頂から見る景色

夷王山の山頂には誰でも登ることができます。駐車場から、なだらかな坂を登ること5分程度。山頂には鳥居があり、武田信広を祀る夷王山神社があります。遮るものがなにもない山頂から見る日本海、奥尻島や渡島大島の風景は、格別なものがあります。

夷王山山頂の夷王山神社

毎年6月にはエゾヤマツツジが見頃を迎えます。満開の時期には「夷王山まつり」が開催され、地元の子供達が松明を手に山を登る「たいまつ行列」が行われています。この夷王山と夷王山墳墓群も国指定史跡に含まれているほか、1960年には檜山道立自然公園の範囲に含められました。

勝山館跡ガイダンス施設で学ぼう

勝山館跡ガイダンス施設

夷王山山頂近くには、上ノ国三館で唯一の資料館「勝山館跡ガイダンス施設」が併設されています(2005年オープン)。館内には200分の1スケールの模型、出土した貴重な遺物やパネル・映像展示、夷王山墳墓群の一部として土葬墓や火葬墓が再現されています。肝心の勝山館跡へは、ここから整備された散策路を徒歩で約5~10分、下っていきます。

勝山館跡ガイダンス施設館内(提供:檜山振興局)

同施設では「史跡上ノ国館跡登城証」が発行されており、花沢館、洲崎館、勝山館の3種類が購入できます。なお、毎年7月の第一土曜日にはコシャマイン慰霊祭が勝山館跡の隣接地で実施されています。

名称勝山館跡ガイダンス施設
所在地上ノ国町字勝山
電話0139-55-2400
開館時間4月第4土曜日から11月第2日曜日までの10時~16時
休館日11~3月は休業。毎週月曜日(祝日と重なる場合は翌日)。
入館料200円(小中高生100円)

上ノ国三館の歴史をまとめると

1494年、武田信広は勝山館で死去し、夷王山山頂に葬られました。跡継ぎである蠣崎光広は1514年に本拠地を松前大館に移し、松前藩がスタートしました(勝山館は副城とし、城代は蠣崎高広、基広と後を継いだ)。

上ノ国三館を年代順で言えば、花沢館、洲崎館、勝山館となっており、この順で面積も大きくなっていきました。三箇所を順に訪ねてみると、徐々に勢力を増していき、それに従い館のスケールも増していき、やがては松前藩の統治につながる歴史の序章を垣間見ることができました。

当時、箱館・松前・上ノ国という重要通商拠点のひとつでしたが、このあと上ノ国の北に位置する江差に行政拠点が置かれ、上ノ国は衰退していきました。とはいえ、その後の北海道に大きな影響を与えた歴史が、ここ上ノ国で刻まれたのは事実です。

上ノ国三館年表

1454年安東政季と武田信広が蝦夷地へ。花沢館など道南十二館を指定
1456年3名を3地域の守護に任命
1457年コシャマインの戦いで10館が陥落、武田信広は洲崎館を築城
1462年花沢館館主 蠣崎季繁死去(その後の数年間で廃城?)
1473年この頃に勝山館が築城
1494年武田信広死去
1514年蠣崎光広が拠点を松前に移す(勝山館は副城に)

上ノ国町のシンボルタワー「北海道夜明けの塔」

北海道夜明けの塔

夷王山の勝山館ガイダンス施設からさらに奥へ500メートルほど進むと、無機質な鉄製の塔が見えてきます。八幡牧野「中世の丘」の「太陽の広場」(13,860平方メートル)にある「北海道夜明けの塔」です。前述の通り、中世の時代に、その後の北海道の歴史に大きな影響を及ぼす松前藩の祖が上ノ国町で起こったことから、上ノ国町は「北海道夜明けの地」と呼ばれてきました。

この塔は1988年に開基800年記念として、また上ノ国町のシンボルとして建設されました。高さは800年にちなんで800寸、つまり24.24メートル(楕円状の土塁の高さ5メートル)。鉄骨造、二重八角錐タワーです。

八角錐の無機質な鉄製

中世の環境造形と現代感覚の造形との出会い、太陽や風などの自然と人間との交換を基本テーマとしてデザインされました。塔の螺旋階段は、未来への強い意志を表現するのだとか。2階の展望部からは上ノ国町市街や日本海を一望。外壁の網目模様は、この地特有の強風と共鳴し、さまざまな音色を響かせるほか、太陽の輝きを微妙に変化させます。

展望階からは上ノ国の日本海を一望
内部から上を見上げる

土塁から三方の道がわかれますが、これは冬至、春・秋分、夏至の日の出の方角を示しています。それで、塔の中心に立つと、四季折々の太陽を見ることができます。

ちなみに、夷王山と北海道夜明けの塔の間には「緑のふるさと公園」があり、夷王山キャンプ場があります。5~10月に開設されています。公園内はバードウォッチングが可能な「ふれあい広場」、木工芸センターのある「いきがいの森」、「野鳥の森」、「よろこびの森」、「記念の森」、多目的広場と遊具・キャンプ場のある「いこいの森」があります。園内は散策路、自然観察路が整備され、自然を楽しめるようになっています。


参考文献:上ノ国町教育委員会 『史跡上之国館跡Ⅰ~Ⅳ』、『北海道の地名』、『新羅之記録』、『福山秘府』、『上ノ国村史』『続上ノ国村史』

※本稿は2010年6月に掲載した2つの記事を再編集し統合したものです。