学ぶ

ラクスマンと初期の日ロ関係

編集部
Written by 編集部

 国内で最もロシアに近いといえる北海道。歴史を通じて北海道はロシア と国境を接し深い関係にあります。今回はその中でも特に江戸時代の日露 関係の始まりに注目。そこで登場するのが有名なラクスマンです。その前 に、初めて蝦夷地に通商交渉をしにやってきたロシア人についても触れて おきましょう。

ロシア通商を求める~1回目(安永年間のシャバリン)

 ロシアはヨーロッパからカムチャッカにまで領土を拡大、1700年代まで にロシア(赤蝦夷と呼ばれていた)と日本(当時は江戸時代)はお隣さんにな りました。当時の日本は鎖国の時代であり、オランダ・中国・朝鮮など一 部の国としか貿易を行っていませんでした。一方のロシアは食料調達のた め、日本と交易したいと思っていました。

 1777年にシベリア商人レベデフ・ラストチキンがナタリア号隊長シャバ リンを派遣し、1778年ノッカマップ(根室半島北端)に来航。ちなみに、こ のときまでにロシアはクナシリ・エトロフ(国後・択捉)と交易が開始され ており、国後島のクナシリアイヌの首長ツキノエの案内のもと来航してい ます。

 しかし返事が来ないので同じくナタリア号隊長シャバリンらを派遣し、 1779年アッケシ(厚岸)筑紫恋に来航。9月に交渉され、当時は日本語学校 がロシアで開設されていたことから、日本語も交えながら交渉したといい ます。しかしこのとき、松前藩は鎖国を理由に通商拒否の姿勢を示しまし た。

 非公式来航ではありましたが、これが、蝦夷地に対する通商交渉のはじ めであります。こうしたロシアからの圧力により、幕府は蝦夷地探検・北 方警備を早急に行うように取り計らうに至りました。当時は渡島半島が和 人地であり、その他の蝦夷地はまだまだ未開拓地でした。

ロシア通商を求める~2回目(寛政年間のラクスマン)

 1792年10月20日、ロシア初の遣日使節アダム・ラクスマンら42人が、帆 船エカテリーナ号でバラサン(別海町)沖経由で根室港に来航、越冬を含め て約8ヶ月間滞在し1793年6月15日に出港しました。シベリア総督の書簡を 持参しており、彼らの目的も、日本へ通商を求めることが中心でした。

ラクスマンと初期の日ロ関係

 公式使節であることを受け、対応は幕府が担当することに。翌年の1793 年1月に幕府役人が、5月10日に幕府役人と松前藩役人が根室に到着しまし た。しかし交渉は松前で行うということで、エカテリーナ号は根室出港後、 貞祥丸の先導により、厚岸経由で7月16日に函館に到着(当初は渡島砂原の 予定)、7月28日に松前で会談を行うことになりました。この際に、漂流民 の大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)と北浜磯吉の2人を送り届けてい ます。

 ラクスマンは8月6日に松前を出発し、8月22日に函館から帰国しました。 実はこの際に長崎入港許可証「信牌」が交付されていたようですが、長崎 には行っていません。

ゴローニン事件

 その後、会社経営者のニコライ・レザノフはラクスマンと同じ手口で、 つまり漂着民の津太夫らを帰還させると同時に通商を求めるため、第2次 遣日使節として長崎へ1804年に来航しました。北海道とあまり関係なさそ うですが、この通商交渉が断られた後、1807年に樺太や択捉島を攻撃させ てしまい、日露緊張関係の末、ゴローニン事件がおきてしまいました。

 ゴローニン事件とは、1811年に松前藩がロシア人ヴァーシリー・ゴロー ニンのディアナ号を国後島付近で拿捕し主要メンバーを人質にしたことに 端を発する事件です。一方のロシア側は1812年に再来日し漂流民と交換す るように求めますが、日本側は拒絶。仕返しに国後沖で観世丸の高田屋嘉 兵衛を拉致されたというもの。交換条件を受け入れ、事件が解決したのは さらに翌年の9月のことでした。

AirBookmark

筆者について

編集部

編集部

北海道ファンマガジン編集部。編集部スタッフが取材執筆した記事や、名前を出さないライターの記事、寄稿記事の掲載の際にもこのアカウントが使われます。