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間宮林蔵は北海道を中心に活動した

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 間宮林蔵(まみやりんぞう)といえば歴史の教科書にも必ず登場する人物 です。樺太が島であることとロシア本土の間の海峡を発見したということ で、彼の名前をとって「間宮海峡」として今でも地図に刻まれています。 今回は間宮林蔵・伊能忠敬を中心に、北海道地図の基礎を作った歴史を紹 介します。

間宮林蔵は北海道を中心に活動した

間宮林蔵とは

 江戸時代後期の1780年、茨城で生まれた冒険家です。幕府の元で働くよ うになり、1799年20歳頃に、地理測量の師匠・村上島之允について北海道 (当時蝦夷地)にはじめてわたりました。

 その後、蝦夷地に来ていた伊能忠敬の弟子となり、択捉島など千島列島 や蝦夷地全域にわたる測量を行っていきました。その間、択捉島でシャナ 事件に巻き込まれるなど大変な思いをしながらも仕事を行っていました。

間宮林蔵樺太探検

間宮林蔵は北海道を中心に活動した  樺太の探検は1808年29歳頃のときでした。幕府により命じられ、松田伝 十郎とともに宗谷から樺太へ出発したのは1808年4月13日でした。しかし、 樺太南西部(ラッカ岬まで)を探検するにとどまり、同年6月に宗谷に戻りま した。一説には、このとき松田伝十郎は樺太が島であることをすでに確信 していたといいます。

 第2回目の樺太探検は1808年7月13日に出発。今度は海峡沿岸をひたすら 北上し、翌年1809年にナニヲーへ到達、間宮海峡の発見に至ったわけです。 その後海峡をわたってシベリア黒龍江周辺を周遊、宗谷に戻ったのは1809 年9月のことでした。

※樺太探検は1801年に幕府により命じられた中村小市郎、高橋次太夫が行 っていましたが、北部はあいまいなものでありました。間宮林蔵の探検で 島であることが判明しました。

 帰還後は約1年かけて「北夷分界余話(ほくいぶんかいよわ)」と「東韃地 方紀行(とうだつちほうきこう)」を書き、北蝦夷地つまり樺太地図を作成 しました。1810年、31歳のときでした。

蝦夷地測量

 翌年1811年、江戸に戻っていた林蔵は半年かけて伊能忠敬から測量を本 格的に学びました。その後すぐに再び蝦夷地へわたり、今度は蝦夷地本土 の測量を開始しました。40歳ごろになっていた1819年には蝦夷地内部の測 量も実施し、1822年(43歳)に測量を完了し江戸に戻りました。

 蝦夷地測量は、実は伊能忠敬が1800年頃、東蝦夷地(渡島半島から襟裳岬 を経て根室まで)測量を行っていたので、残り半分の西蝦夷地(根室~稚内 ~渡島半島西部まで)を担当しました。とはいえ、より正確にということで 間宮林蔵は東蝦夷地も再度測量しました。1822年に完成した「蝦夷全図」 は一畳半ほどのサイズで、蝦夷地本土とウルップ島までを含み、地名まで 書き加えられたものでした。

 こうして、間宮林蔵は若い頃19歳から43歳まで20年以上の時期を北海道を中心 に生活していたことになります。

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