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松前氏はどこからきた?

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松前氏はどこからきた?
勝山館のあった上ノ国町夷王山

 江戸時代に蝦夷地を支配した松前藩。藩主はもちろん松前氏なわけです が、松前氏の歴史について今回は紹介します。武田(蠣崎)信広、蠣崎季繁 が、重要人物です。はじまりは安東氏でした。

安東氏と道南12館

 初期の蝦夷地支配は、津軽の豪族であった安東氏が行っていました。 津軽下ノ国の安東盛季および小豪族は、室町時代の1443年に南部義政に せめられて蝦夷地に逃げ込んだとされています。1456年までに安東政季の 12の部下を道南各地の小領主として配置、これが一般に「道南12館」と呼 ぶ砦のある住居へと発展していきました。

 これら12の小領主は勢力を増していくわけですが、1457年のアイヌとの 戦いである「コシャマインの反乱」により、12のうちほとんどが壊滅状態 となりました。残ったのは花沢館、茂別館の2つだけで、ほかはアイヌに より攻略されました。

 その残ったうちのひとつ、花沢館の主だったのが、若狭国守護武田氏の 親族であった蠣崎修理大夫季繁でした。

蠣崎季繁(かきざきすえしげ)と信広

 コシャマインの反乱で、花沢館までやってきたアイヌ軍でしたが、この 時に花沢館にやってきていた人物が若狭国からやってきていた武田信広で、 彼によりコシャマイン親子が殺され、花沢館を救い、反乱が終わりました。

 蠣崎季繁はその功績ゆえに武田信広をえらく気に入り、蠣崎氏の養嗣子、 婿養子になり、蠣崎信広と名乗ることになりました。信広の蝦夷地におけ る権力は増し加わり、1462年に上ノ国の花沢館の近くに勝山館を築城しま した。その後しばらくは上ノ国が道南の拠点となりました。

独立と松前藩成立

 蠣崎氏は、信広の息子・光広(第2代)、義広(第3代)、季広(第4代)と続 いたあと、慶広(第5代)の時代になります。このころには、先述の安東氏 から独立の動きが加速します。戦国時代、慶広は豊臣秀吉に接近し、つ いに安東氏から独立を果たし、蝦夷地の支配者となりました。

 征夷大将軍・徳川家康にも接近し、1599年に氏を松前に改称しました。 この松前というのは、徳川家康の旧姓松平および前田利家の頭文字を一 文字ずつとって名づけたとされています。

 以後、松前藩は松前氏が14代藩主をつとめて、明治時代に入りました。 というわけで、松前氏の祖は蠣崎信広であり、それはかつて蝦夷地を支配 していた安東氏が関係しているというわけです。

まとめ

安東盛季……蝦夷地へ逃亡
安東政季……蝦夷地で12館を築城させる
蠣崎季繁……12館のうち最後まで残ったうちのひとつ花沢館主
蠣崎信広……花沢館を救出し蠣崎氏を継承した勝山館主(旧:武田信広)
蠣崎光広……蠣崎第2代(初代の子)
蠣崎義広……蠣崎第3代(第2代の子)
蠣崎季広……蠣崎第4代(第3代の子)
松前慶広……蠣崎第5代・松前藩主初代(第4代の子)
松前公広……松前藩主第2代(初代の孫)
松前氏広……松前藩主第3代(第2代の子)
松前高広……松前藩主第4代(第3代の子)
松前矩広……松前藩主第5代(第4代の子、この家系は途絶える)
松前邦広……松前藩主第6代(第2代のいとこの孫)
松前資広……松前藩主第7代(第6代の子)
松前道広……松前藩主第8代(第7代の子)
松前章広……松前藩主第9代(第8代の子)
松前良広……松前藩主第10代(第9代の孫)
松前昌広……松前藩主第11代(第10代の兄弟)
松前崇広……松前藩主第12代(第9代の子、第10・11代のおじ、老中)
松前徳広……松前藩主第13代(第11代の子)
松前修広……松前藩主第14代(第13代の子、最後の藩主)

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