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荻野吟子は日本初の女性医師

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 荻野吟子氏を知っていますか?あまり知らないという方も多いかもしれ ません。女性として日本で初めて医師となった人です。彼女の伝記ともい える小説にも描かれており、北海道の歴史上でも重要な人物とされます。

※2006年5月9日付の北海道新聞で、明治時代の公文書から荻野吟子氏よりも10年以上も前に女性医師が道内で働いていたとする説が浮上しました。その人物とは、アメリカ合衆国メソジスト監督教会から派遣された宣教師フロレンス・エン・ハミスファーで、函館の女学校(現在の遺愛学園)の校医として、学生や一般市民の診察に3年間あたっていたとしています。1883年から3年間ですので、1897年に檜山管内せたな町で開業した荻野吟子が北海道女医第一号という定説が崩れ去ることになりました。正確には「日本人の北海道女医第一号」となります。

荻野吟子ってどんな人物?

荻野吟子は日本初の女性医師  明治時代に生きた人です。生まれは江戸時代末期の1851年(ペリー来航 の時期)で五女として誕生。出身地は北海道ではなく埼玉県でした。子供 時代は庄屋という家柄ゆえ、恵まれた環境で学問に励みました。

 十代で結婚するも、約2年で離婚。発端となったのは夫に性病をうつさ れたことでした。大学病院に入院し治療にあたりますが、ここで、後に 偉大な女医が誕生するきっかけが生じます。担当医が男性であり、恥ず かしい思いをしたのですが、このつらい経験から「女医が必要である」 と考え、自ら女医を志すことにしたのです。

女医を目指す……それはつらかった第1難関

 とはいっても、当時の社会は女人禁制や男尊女卑。その前途には高い壁 が立ちはだかりました。それでも、学問に励み続けました。20代前半には 上京して、まずは井上頼圀(よりくに)氏の井上塾に入門、内藤塾に招かれ るほど知名度も上がりました。

 その後、東京女史師範学校第一期生として入学、4年後に首席で卒業、 私立医学校である好寿院にも入学し上位成績で卒業します。第一難関はク リアしました。問題はココからでした。

女医を目指す……それはつらかった第2難関

 これだけ熱心に医学について学び、ずばぬけて成績優秀であったにもか かわらず、悲しいことに卒業直後に提出した開業医受験願はいずれも却下。 理由は女性だから、でした。

 これに同情した荻野吟子の後継者、高島嘉右衛門氏は、先に述べた井上 塾の井上頼圀氏にかけあい、支援を願い出ます。井上頼圀氏は衛生局長へ の紹介状を用意、彼女が学んだ好寿院の経営者石黒忠悳(ただのり)氏と共 に局長に面会します。「女性に受験資格はないという条文がない」と衛生 局長を説得させたといいます。

 こうした助けと彼女の熱意が実り、ようやく受験が認められたのでした。 そして1884年と1885年に前期後期にわかれて行われた医術開業試験で、悲 願の合格、こうして日本に女医第一号が誕生しました。このとき35歳。女 医になることを決心してから十数年が経過していました。

産婦人科荻野医院!

 1885年、産婦人科荻野医院が開業しました。明治女学校の校医となるな ど活躍した後、医院を休業、夫を追って北海道へ渡ることになりました。 住んだところはインマヌエル(檜山管内今金町)、渡島管内長万部町国縫。 翌年1897年には檜山管内せたな町瀬棚区で荻野医院を開業しました。

 このとき40代。医院を続けるかたわら、婦人会を結成したり、日曜学校 の創設をしたりと、医学以外の面でも活躍しました。夫が同志社に再入学 するため北海道を離れると、彼女は札幌でも少しの間、婦人科・小児科を 開業しています。夫が病死した後の58歳に北海道を離れ、大正時代の1913 年に63歳で亡くなりました。

・北海道関係の年表
 1896年5月(46歳) 現在の今金町へ
 1896年8月 現在の長万部町国縫へ
 1897年2月 現在のせたな町瀬棚区へ移転し医院を開業
 1903年  札幌へ移転し婦人科・小児科を開業、いったん病気のため北海道を離れる
 1908年(58歳) 北海道を離れる

荻野吟子の開業のまち「せたな」!

 せたな町瀬棚区(旧瀬棚町)は荻野吟子のまち。荻野吟子小公園には「顕 彰碑」があります。また、生誕150年記念として2001年に旧瀬棚町役場前に 「荻野吟子女史像」が設置されています。郷土資料館にも遺品の数々が展 示されていますし、彼女の精神を受け継ぐ「荻野吟子記念瀬棚国保医科診 療所」も近年開業しています。

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