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オホーツク文化とウィルタとニヴフ

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Written by 編集部

 縄文時代に続いて続縄文時代・擦文文化の時代があって、国内でも珍し い時代の移り変わりをしてきた北海道ですが、網走地方はそんな道内でも さらに異色の歴史を刻んできました。それが、オホーツク海沿岸各地で見 られた環オホーツク海古代文化のひとつ「オホーツク文化」と呼ばれるも ので、道内でもアイヌほどあまり知られていないのが現状です。

オホーツク文化とは?

オホーツク文化とウィルタとニヴフ

 北海道内で続縄文文化が定着していた5世紀ごろ、オホーツク海沿岸では まったく別の文化がやってきました。それは北海道の擦文文化が終わる13 世紀ころまで約800年間続きましたが、オホーツク文化はそのころまでに突 然消えてしまったのです。その理由についてはなぞですが、オホーツク海 沿岸でそのような文化があったことは事実となっています。

 オホーツク文化は道内オホーツク海沿岸や道北だけでなく、樺太や千島 のほうにもあったとされています。ルーツもなぞに包まれていますが、少 数民族のニヴフ(ギリヤークとも呼ぶ)によって樺太南部ではじまったとさ れ、樺太や北海道のオホーツク海沿岸を中心に、利尻、国後など離島にま で及んでいます。特徴は、北方民族の生活スタイルを継承しており、北東 アジアの影響を受けているようです。

オホーツク文化とウィルタとニヴフ  遺跡から、オホーツク人は沿岸部に居住していたことがわかっています が、舟を使って漁業や、冬季には流氷があっても大丈夫な海獣(アザラシ・ トドなど)狩猟、捕鯨を中心としていました。このことから"海の狩人" とも呼ばれます。

 ほかにもヒグマ、シカを狩猟して肉や毛皮を得たり、豚や犬を家畜とし ていたなど、ほかに見られないオホーツク文化の特徴もあります。また家 は竪穴式住居、オホーツク式土器があったこともわかっています。

 オホーツク文化の最大の遺跡は、網走市にある国指定史跡モヨロ貝塚で す。この発見がもとで現在オホーツク人と呼ばれるようになっている旧称 モヨロ人の存在がわかり、道内にも独特のオホーツク文化があったといわ れるようになりました。

オホーツク文化とウィルタとニヴフ

2009年6月までに北大研究グループが、オホーツク人のDNA解読に成功。ニブヒやウリチといった地域の民族に見られるハプログループY遺伝子がオホーツク人からも見つかっているため、その流れをくむ可能性が非常に高い。また、のちにアイヌとなる当時の続縄文・擦文の人々との結びつきから、今のアイヌも20%の比率で同じDNA要素を持つことが判明している。

トビニタイ文化とは?

 オホーツク文化は後期になると北海道の擦文文化の影響を受けるように なり、両者の文化が融合した「トビニタイ文化」が生まれます。これは9 世紀から13世紀まで道東で発生し、オホーツク文化の特徴である海岸居住 だけにとどまらず、内陸部への居住も見られるようになります。

 土器や竪穴式住居の特徴も擦文文化とオホーツク文化の融合を示してい ます。一方、道北では9世紀ごろにオホーツク文化が擦文文化に吸収され ました。ちなみにトビニタイという名前は根室管内羅臼町の地名から取っ たトビニタイ遺跡が最初に発見されたことから。

ウィルタ族ニヴフ族とは?

 樺太の先住民族です。ウィルタ族は網走管内斜里町市街地の岩の名前で 有名な「オロッコ」と呼ばれてきました。ニヴフは「ギリヤーク」と呼ば れてきました。それぞれ独自の言語を持っていて、アイヌとも近い関係に ありました。

 ウィルタ族やニヴフ族がやってきたのも網走の地でした。非常に古い話 ではなく比較的近年の話で、終戦後、日本領土だったサハリン(樺太)にい て日本国籍を持ち旧日本軍に徴用された一部の人たちは日本へ強制送還さ れたりしました。その行き着いた先が網走市などだったというわけです。

 網走市はウィルタと縁が深いのです。現在、網走市に北方少数民族資料 館があり、学ぶことができます。ここにはウィルタ協会も置かれています。 ミス網走といえる網走市の「流氷パタラ」のパタラとはウィルタ語に由来 していて、意味は「お嬢さん」です。衣装も北方民族のかわいらしい衣装 になってます。

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