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小樽市オタモイに実在した夢の巨大リゾート施設「オタモイ遊園地」の謎

昭和初期、小樽市オタモイに巨大リゾート施設「オタモイ遊園地」とその中核施設「龍宮閣」が存在したのをご存知だろうか。その姿が存在していたのはわずか17年ほど。1952年(昭和27年)、大火により焼失し、劇的な終わりを遂げた地上の竜宮城「龍宮閣」については、今なお謎が多い。

今回は「オタモイ遊園地」や「龍宮閣」の謎多き歴史について、小樽市総合博物館に協力いただきながら紐解く。

▼オタモイ遊園地パンフレット(小樽市総合博物館所蔵)
小樽市オタモイに実在した夢の巨大リゾート施設「オタモイ遊園地」の謎 小樽市オタモイに実在した夢の巨大リゾート施設「オタモイ遊園地」の謎

そもそも「オタモイ遊園地」とは

オタモイ遊園地は、昭和初期に小樽の沿岸部オタモイに開園した巨大リゾート施設である。開演中は断崖絶壁に建てられた高級料亭「龍宮閣」を中核施設として、多くの人々が訪れた。しかし、竣工からおよそ17年後の1952年(昭和27年)、龍宮閣が火事により全焼したことをきっかけに閉園状態となり、その全容はいまだ解き明かされていない。

開園期間はごく短い物であったにもかかわらず、当時の華やかさから伝説的に語り継がれ、特に小樽市内では知名度が高い。龍宮閣以外の施設も解体工事などが行われ、現在、当時のおもかげをしのぶものとしては移築された唐門のみが残されている。

龍宮閣の建てられていた場所へは立ち入り禁止となっているが、その手前までは自由に通行ができる。とはいえ、跡地への道のりは容易ではない。登山道かと思うほどの急こう配、急カーブの続く通称「七曲り」を下り、ようやく遊園地跡地へと辿り着く。そこに開ける絶景を目の当たりにすると、ここがかつて夢のリゾート地だった姿とオーバーラップする。

▼今は遊歩道は崖崩落のため、通行禁止となり、海上からしかその姿を見ることができない龍宮閣跡地(海上から見る方法はこちら)
小樽市オタモイに実在した夢の巨大リゾート施設「オタモイ遊園地」の謎

▼現在の夏のオタモイ海岸の夕景
小樽市オタモイに実在した夢の巨大リゾート施設「オタモイ遊園地」の謎

昨年、札幌在住のとある方から、北海道ファンマガジン編集部に一枚の写真が寄せられた。 その写真は寄贈者の祖父の遺品であり、かつて小樽に住んでいた祖父がオタモイを訪れた際に写したものらしいということだった。裏書から撮影されたのは「昭和九年七月十五日」とわかる。

▼提供を受けた写真(小樽市総合博物館所蔵)
小樽市オタモイに実在した夢の巨大リゾート施設「オタモイ遊園地」の謎

確認のため、オタモイ遊園地の研究をされている小樽市総合博物館 指導員の山本侑奈さんを訪ねたところ、その写真の背景に写っている建物はオタモイ龍宮閣に間違いなく、偶然にも、その写真と全く同じものが小樽市総合博物館に所蔵されているとのことであった。

博物館で所蔵されている一枚は、オタモイ遊園地の設計や建設に深く関わった廣部幸太郎氏の子孫の方より寄贈されたものであるという。寄贈者の祖父が廣部氏と同一の写真を所有していたということは、廣部氏の事業に参加された、もしくは遊園地の従業員だったという可能性も考えられるということだが、それを特定するには至っていない。

オタモイ遊園地や龍宮閣の史実を紐解くには、このような当時遊園地を訪れた人々が記念や記録のために残した資料が貴重な手掛かりとなる。

山本さんがオタモイ遊園地の研究を本格的に始めるきっかけとなったのも、博物館に1937年(昭和12年)頃のオタモイ遊園地を撮影した8㎜フィルムが寄贈されたことであった。オタモイ遊園地については、それまでも博物館の学芸員らが史実をまとめたり、絵葉書や写真などの資料収集を行うなどして研究を行っていたが、資料が少なく、全体像の把握は困難であった。しかし、そのフィルムは約11分間全てオタモイ遊園地を撮影したもので、これまで写真でしか確認できなかった部分が、動画の発見により、建物の配置や実際の来園者の足取りなど全体像が確認しやすくなった。

オタモイ遊園地・龍宮閣は、小樽市内のみならず札幌周辺でも一部の間では話題性の高い施設であるが、その分 都市伝説的に語り継がれる「誤解」も多い。博物館ではオタモイ遊園地に関わる調査を進めるうちに、歴史的観点からオタモイ遊園地について発信していく必要性を重視し、研究を始め、継続中とのことだ。

2015年3月に発行された『小樽市総合博物館紀要 第28号』に掲載されている山本さんの研究報告「オタモイ遊園地の史的研究」では、これまでに調査された史実が記されているが、過去に知られていなかった興味深い話も登場する。

この研究報告に沿い、山本さんと小樽市総合博物館 石川直章館長にお話を伺った。

オタモイ遊園地の建設主「加藤秋太郎」と創設のキーマン?!「廣部幸太郎」(以下敬称略)

オタモイ遊園地の創設者・加藤秋太郎は小樽で「蛇の目」という割烹料亭を営んでいたというのは、これまでもよく知られていた話だが、それ以前の経歴などについてはあまり知られていない。

愛知県出身の加藤は、もともと寿司職人として東京浅草のすし店「蛇の目」で修業を積んだのちに独立、その後朝鮮へ渡り店を開き、順調な経営だったにも関わらず、乗った儲け話が失敗し、次は樺太で事業を立ち上げようと渡航のために立ち寄った港が小樽だった。しかし樺太へは渡らずに小樽で寿司店を始めることとなった。そこで名付けたのが東京浅草蛇の目寿司の支店を名乗った「蛇の目寿司」である。

最初は小さな店舗であったが、加藤が修行をした本格的な江戸前の寿司は、当時の小樽では珍しく、2年後には2号店を開店させるほどの人気ぶりで、その後は寿司以外にも日本料理、フランス料理、中華料理、てんぷらなどを出す、高級な割烹店となり、店名からも寿司を取り「蛇の目」に改めた。

割烹店が軌道に乗った加藤は、店で出す鯉の仕入れ先であった廣部養鯉園の主人・廣部幸太郎からオタモイという土地を紹介される。当時のオタモイは小樽市の隣町、忍路郡塩谷村(1958年(昭和33年)小樽市と合併)に属しており、廣部はオタモイ地区の初期の入植者として、オタモイの風景を熟知していた。

当時、北海道経済の中心の街で、多くの人が来樽していたにも関わらず、観光名所がないと言われていた小樽。そんな中で見たオタモイ海岸の景勝を気に入った加藤は、その地を一大観光地にすべく、オタモイ遊園地創設に取り掛かった。

これまでオタモイ遊園地の創設者として知られていたのは加藤のみであったが、当時の資料をもとにした調査活動により、廣部も加藤とともに深く事業にかかわり、遊園地建設に多大な貢献をしたことが明らかになってきている。

筆者について

なかつ☆えりこ

なかつ☆えりこ

小樽には色々な色があります。春夏秋冬、朝昼晩、色んな場所で色んな色。色と一緒に色々な小樽を覗いて見てください。小樽生まれ、小樽育ち、途中いなくて、再び小樽在住のライターです。小樽の色々、色んな時を見ていますが、いまだに毎日色んな発見&感動をくれる街、小樽「イエーイ」。