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 ペリー来航の黒船事件。それに対して「北の黒船事件」がありまし">北の黒船事件と津軽藩士殉難事件とは? – 北海道ファンマガジン [ファンマガ]
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北の黒船事件と津軽藩士殉難事件とは?


 ペリー来航の黒船事件。それに対して「北の黒船事件」がありました。実は黒船来航よりも50年も前で、鎖国中の江戸時代でした。それは北方のロシアから来たことから「北の黒船」といわれています。

北の黒船事件とは?

 屯田兵と全国各藩は蝦夷地に派遣され、北方警備にあたっていた時代です。たびたびロシア船が蝦夷地近海に現れていたからです。やがて、1804年になってロシアのニコライ・レザノフが長崎に来航し開国・通商を求めました。結局幕府はロシア側の要求を半年待たせた挙句拒否し、レザノフ一行をロシアに帰しました。

 レザノフは大変怒り、この報復行為として、1806年9~10月に部下のフヴォストフ率いる武装商船2隻が樺太に上陸し松前藩出張所を襲撃(レザノフが計画したもののフヴォストフが独断で行動したとされます)。1807年4月には択捉島、5~6月には礼文利尻周辺の船を襲撃し利尻島にも上陸。それぞれで略奪・拉致しました。

 この事件はフヴォストフ事件ともいわれます。各地で拉致されたのは10人で、利尻で8人が釈放されました。ロシアから渡された幕府への書簡を松前藩に届けました。

 ロシア襲撃に対して幕府は1807年3月に蝦夷地全域を幕府直轄領としました。また、同年12月には「ロシア船打ち払い令」が出されました。ちなみに、この事件前にはラクスマン来航、事件後にはゴローニン事件が起きており、ロシアとの緊張関係が続いた時代でもあります。

1806年 9月 フヴォストフの襲撃艦船がオホーツクを出港
1806年10月 樺太アニワ湾にて上陸し焼き払い・略奪を行い、日本人4人を拉致しカムチャッカにて抑留(~翌年6月)
1807年 3月 蝦夷地全域を幕府直轄とする
1807年 4月 丁卯事件(でいぼう)。択捉島ナイホでロシアが上陸し会所を襲撃・略奪、一時撤退するも夜襲で南部藩・津軽藩を敗走させ、6人が捕虜になる
1807年 5月 東北地方の諸藩に北方警備を命じる
1807年 6月 5月からロシアが礼文・利尻沖で船を襲撃、利尻島上陸で襲撃、捕虜8人が釈放される
1807年12月 ロシア船打ち払い令

東北諸藩が出兵・北方警備を命じられた

 危機を感じた幕府は、すぐに蝦夷地警備を強化することを決め、1807年5月に東北地方の藩士を蝦夷地に出兵させました。会津藩、秋田藩、仙台藩、弘前藩など、合計3000人が出兵を命じられました。実際にはナポレオン戦争によるロシア兵引き揚げで、交戦はありませんでした。

 斜里に派遣された津軽藩は100名。5月に500人以上で弘前城から青森へ、箱館から宗谷へ、その後100人は斜里に配置替えとなり、斜里に秋に到着し冬支度を急いで行いました。彼らは寒さに耐え、食糧不足に耐え、結局病に倒れる人が出てきて次から次へと死んでいきました。浮腫病でした。

 彼らに帰還命令が出されたのは1808年8月のことで、それまでに72人が死亡し、17人だけが生き残りました。この悲惨な出来事は知られていませんでしたが、1954年に「松前詰合日記」(藩士の斎藤勝利による記録)が発見されて事件の詳細が判明しました。

 この記録は発見されればお家断絶・切腹の危険があったため、子孫が隠し持っていました。こうしたことから、斜里町は慰霊碑を建立、地元弘前市と友好交流を行って、斜里ねぷたが行われるようになりました。

 一方、会津藩も大変な思いをしました。帰還途中の観勢丸が利尻島近くで暴風雨にあって沈没する災難にあい、数人が死亡しました。さらに一部は天売島、焼尻島に避難し、合計で51人が死亡しました。現在も利尻島内、焼尻島内、宗谷岬に墓や碑が残されています。

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