">
">色丹島とは? – 北海道ファンマガジン
学ぶ

色丹島とは?


 色丹島(しこたんとう)。ロシアが実効支配している北方領土の四島の一つです。根室支庁管内色丹郡色丹村は島唯一の地方自治体で、1島1郡1村です。名前の由来は大きな村を意味するアイヌ語「シ・コタン」です。ロシアでも同じく呼びます。かつては斜古丹村でしたが、1933年10月に色丹村に改称されました。実は日本で13番目に大きい島です。本土から73.3kmあります。

 面積は255.33km2(北方領土全体の7%)、1945年8月の統計では人口1038人、206世帯。かつて村役場がおかれた中心集落の斜古丹、穴澗の2大集落が島の北側にありました。ロシアが支配する現在も、斜古丹が島最大集落で2006年の人口2244人、穴澗は人口925人です。

 現在、マロークリリスクと呼ばれる斜古丹市街地にはロシア国境警備隊基地、クラバザヴォーツクと呼ばれる穴澗には日本漁船が拿捕されたときに収容される収容所施設があります。

北方四島・色丹島マップ

より大きな地図で 北方領土 を表示

色丹島色丹村の地区別主要施設
斜古丹地区: 色丹村役場、学校、神社、寺院、駅逓、捕鯨会社、球場、旅館、根室警察署駐在所、北海道水産物検査所派出所、根室営林区署駐在所、郵便局
能登呂地区: 郵便局、神社、寺院、エビ缶詰工場
チボイ地区: 学校、神社、駅逓
イネモシリ地区: 神社、フジコ製造工場
相見崎地区: 学校、神社、駅逓
切通地区: 学校、神社、駅逓、養狐場
穴澗地区: カニ缶詰工場

 最高峰は413mの斜古丹山。チボイ山(396m)、渤海別山(364m)などもあります。起伏が多く、昭和初期までは日本18景のひとつでした。断崖部もあり、大島、小島、鴨島、ゴメ島が海岸にあります。南西部にノトロ沼という沼があります。

 島へのアクセスとしては、空港がないのでサハリン・コルサコフ港~斜古丹港間をサハリンクリル海運が週2便連絡船で結んでいます。ビザなし訪問団の場合は、国境警備隊がある斜古丹港は機密保持のため入港せず、穴澗港に入港、艀を使って上陸します。

色丹島の産業

 色丹島は海岸線に天然の良港が多く、昔から漁業で栄えてきました。斜古丹・穴澗・松ヶ浜・又古丹・イネモシリ・ノトロ・キリトウシ・相見崎の8港がありました。

 とくにコンブやサケが漁獲されます。ギデロストロイ社の水産加工工場が 斜古丹と穴澗にて稼働し、缶詰を生産してきました。この工場進出のおかげで、1980年代に最盛期を迎え、過去最高の6700人が居住しました。穴澗にはギドロストイ水産加工場があります。

 一方、農業もおこなわれ、草原地帯を利用した馬の放牧がおこなわれていました。飼育頭数は500頭といわれています。イネモシリ湾近くには金銀があって鉱業も行われました。

色丹島の歴史

 もともとアイヌが先住していましたが、獲物が不足し北海道に引き上げたました。また、江戸時代末期に、商人が猟場2か所を設置するも採算に合わず撤退し、1856年以降20年間無人島になったことがあります。しかし、1876年に開拓使が官舎を建築、外国の密漁船を取り締まりました。

 明治10年代に千島全域が日本領土になった際、占守島の在住のアイヌ97人が強制的に色丹島に移住させられたことがありました。ロシアと交流が深く、遠隔地であったことから、危険と判断させられたためです。しかし、環境になじむことができなかったため絶滅しました。

 1890年代以降水産業が盛んになり、人口が増加しました。1920年に543人、1930年に911人、1935年までに1000人を超えました。小学校が斜古丹とノトロに設置され、郵便局が設置されました。かつてマタコタン、ホロベツなど北岸のみならず島南部にも集落がありました。1914年に土佐捕鯨株式会社の工場、1916年に東洋捕鯨株式会社の工場が竣工しました。

 1992年には租借地をめぐって事件が起こりました。香港の企業家・楊文虎が50年間、島東南部のジミトロワ湾沿岸278ヘクタールを2億ルーブルで租借し、日本人向けのカジノリゾートを造成する計画を打ち出しました。それに対し日本政府はカールソン・アンド・カプラン社に対して計画中止を求め、計画は中止されました。

 1994年の北海道東方沖地震では島の90%の建物が倒壊するなど甚大な被害を受けました。前述の缶詰工場は旧ソ連解体による経済自由化で大打撃。こうした要因から、人口は激減して現在に至っています。

AirBookmark

筆者について

編集部

編集部

北海道ファンマガジン編集部。編集部スタッフが取材執筆した記事や、名前を出さないライターの記事、寄稿記事の掲載の際にもこのアカウントが使われます。