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カツゲンヒストリー1 軍人用飲料水代替品として開発された

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カツゲンヒストリー1 軍人用飲料水代替品として開発された

現在道内を中心に販売されている雪印メグミルク製造「ソフトカツゲン」。そのカツゲンのルーツを探る第1回目、カツゲンが誕生するきっかけとなった出来事についてです。カツゲンはどのようにして生み出されたのでしょうか。

 カツゲンはどのように誕生したのでしょうか。カツゲンのルーツは昭和初期にまでさかのぼります。まだ雪印乳業ではなく、前身の北海道製酪販売組合連合会(酪連)が雪印という商標を使いだした後のことです。1925年に北海道で創業した同組合は、昭和初期にアイスクリームやチーズの製造販売を開始していました。酪連は国内における過剰バターを調節し市場の混乱を防止すべく1935年10月1日に大連事務所を開設、これが大陸進出の第一歩となりました。

 1937年に勃発した「日中戦争(日華事変)」により様相が一変します。酪連にとっても外貨獲得の国策にそって中国市場進出が望まれました。現地視察の結果、上海に事務所、天津・南京・京城の3カ所に出張所を開設することが決定されました。

 カツゲンの歴史を語る上で注目したいのが、上海事務所及び工場です。新民路第59号に国民軍関連施設の建物がありました。しかし戦争のため使用に耐えないほど破壊されていたため、1938年6月10日に建物の使用許可を得、整理補修・設備整備した上で「上海工場」としました。また同年7月10日には北四川路461号に「上海事務所」も開設されました。こうして、乳酸飲料誕生の舞台が整いました。

軍から要求された飲料水開発

 ところで上海工場は、軍からの要請に応え、必要に迫られて整備したものでした。なぜ軍から注文があったのでしょうか。これには、当時の派遣軍の状況が大変厳しいものだったことが関係しています。

 大日本帝国陸軍の中支那派遣軍が進出するに際し、派遣先である中支は5月中旬頃から酷暑のため将兵の飲料水が不足していました。しかも、生水ではチフスやコレラ、赤痢などの伝染病にかかる恐れがあり、一旦煮沸したものでなければ使用できなかったのが派遣軍の頭痛の種だったようです。

 ちょうどそのころ、その地域を視察で訪れていたのが黒澤・酪連会長でした。会長が「乳酸飲料はブルガリア菌を含み整腸の効果がある」と説明したところ、軍上海衣糧から、飲料水の代用品として乳酸飲料の生産・納入を求められました。問題は、兵士用の大量の乳酸飲料を供給できるかどうかでした。早速、北海道にいた佐藤酪連専務理事と電報交換。やがて調整可能の目途が立ったので専務理事が直接上海へ赴き、上述の上海工場建設に至ったといういきさつです。

 つまり、新たな乳酸飲料の製造を行う上海工場は、軍からの要請に応じて建設されたとも言えるでしょう。では、開発された新たな乳酸飲料はどんなものだったのでしょうか。どのように生産されたのでしょうか。

「活素(かつもと)」の生産開始

 こうして上海工場では、新しい乳酸飲料が製造されることになりました。名称は「活素」読み方は「かつもと」としました。意味は、勝つという意味から「活」、牛乳の素という意味から「素」を当てました。

 上海工場は1938年7月23日に稼働・生産を始めました。当初は軍からの要請であった「活素(かつもと)」の生産が第一でした。活素(かつもと)は、砂糖を大量に加え、減菌した原液を希釈したものでした。乳酸菌が少なく、現在のカツゲンとは全く違いました。

 その原液は当初北海道から送られていました。第1回目は99缶を、活素(かつもと)生産開始約1か月前の6月28日に上海到着、第2回目は345缶が、生産開始半月前の7月10日に到着しました。こうして送られてきた原液を希釈し、瓶詰めして、軍に供給したというわけです。

 当初は、(1)希釈すると沈殿する、(2)異常発酵で栓が抜ける、といった問題もありましたが、技術陣の研究でやがて解決されていきました。作業には女性作業員らがあたりました。ちなみに、上海工場ではその後まもなく、バターの包装加工や販売、アイスクリーム製造販売も始めることになります。

 要するに「活素(かつもと)」は、原液は北海道生まれですが、製品としては上海生まれと言えるでしょう。そして当初は専ら中国で傷病兵や軍需工場向けに販売され飲まれていたというわけです。では、その後「カツモト」はどうなったのでしょうか。

カツモトの衰退・生産停止

 中国・上海工場で生産開始されたカツモトは評判を呼び、その後すぐ、上海だけでなく道内でも生産されるようになっていきます。札幌工場、函館工場、狩太(ニセコ)工場の道内3工場に加え、道外では大阪歌島工場の1工場で生産されました。

 1938年度には、カツモトを上海・札幌・函館・狩太の4工場で、翌1939年度には上海・札幌・函館の3工場で、1940年度と1941年度には上海と大阪の2工場でのみ生産になりました。ここから分かるように、道内での生産は徐々に減っていき、ついには生産されなくなってしまいました。その変わり大阪工場での生産が始まりました。1938年度から1941年度までの生産数は以下の通りです(1合瓶で換算)。

年度上海札幌函館狩太大阪合計
1938年度773000112000 54000 15000954000
1939年度528000 85000 44000657000
1940年度484000 92000576000
1941年度290000 68000358000

 1945年2月頃からは、戦争末期のため物価高騰で原材料が手に入らず、市販品の製造が困難になります。国内で生産が減少してストップしたのはそのためです。上海では、カツモトを陸軍10000箱、海軍3300箱、航空食500箱、そのほか生豆腐と油揚げを製造する工場になっていました。最終的に上海のカツモトは、台湾からの砂糖供給停止により生産が打ち切られてしまいました。上海工場はアルコール工場に転換を図るも、結局そのまま終戦に至りました。上海支店も政府接収のため1945年9月21日に営業を停止しました。

 終戦をもって「カツモト」は記録から消えているため、生産も販売もされなくなっていったようです。ではその後、現在のカツゲンはどのようにして誕生し、北海道に普及していったのでしょうか。次の記事に続きます

「活素(かつもと)」時代の年表
1935/10/01 北海道製酪販売組合連合会・大連事務所設置
1938/06/28 北海道から初の活素(かつもと)原液が上海着
1938/07/10 上海事務所開設・2度目の活素原液上海着
1938/07/23 上海工場開設・乳酸菌飲料「活素(かつもと)」製造開始
1945/09/21 上海支店営業停止

※注記:雪印乳業の流れを汲む雪印メグミルクの公式見解では、「活素(かつもと)」が現在の「カツゲン」のルーツとしていますが、当時の開発担当者らの証言や社史等比較検討しそうではないとする説もあります。詳細な記録もないため、また、今となっては当時を知る人がいないため、真相は不明です。

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