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函館にはかつて野球日本代表の主将がいた! 伝説の捕手・久慈次郎とは?

千葉美奈子
Written by 千葉美奈子

【函館市】 昨年現役引退した野球解説者・小久保裕紀氏が、野球日本代表・歴代最年少の監督として就任し、注目を集めていますが、函館も日米野球にゆかりのある土地です。函館にはかつて、日本代表の主将がいました。『函館太洋倶楽部』に長く所属した久慈次郎氏です。函館オーシャンスタジアム(函館市千代台町)の傍らには、ミットを構える久慈氏の銅像があります。

▼函館オーシャンスタジアム。左下方に久慈次郎像。▼右:「球聖久慈次郎の像」
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『函館太洋倶楽部』は1907(明治40)年に結成され、現存するクラブチームの中で最も歴史ある存在。函館太洋倶楽部のホームページによると、岩手県盛岡市出身の久慈次郎氏(生まれは青森市)が早稲田大学を卒業後、函館市の企業に就職し、同倶楽部に入部したのは、1922(大正11)年のことでした。

函館にはかつて野球日本代表の主将がいた! 伝説の捕手・久慈次郎とは? 1934(昭和9)年の日米野球では、30代半ばだった久慈氏が主将兼捕手として、当時10代だった沢村栄治、ヴィクトル・スタルヒンら投手をリードしました。 投打の二刀流で結果を出した「野球の神様」、ベーブ・ルースも、この日米野球では大リーグ選抜チームの一員として来日。函館では、函館湯の川球場(現・湯川中学校)で試合が開催されました(写真)。

この試合が行われたのが11月。この年の3月に、函館は大火で大きなダメージを受けています。函館を元気づけたいと、日米野球の函館開催に尽力したのが、久慈氏でした。 久慈氏は、勤務していた函館水電を退社し、運動具店を開店した企業家としても知られています。1934年の全日本チームのメンバーを中心に結成され、読売巨人軍の前身となったチームへの強い誘いを受けましたが、断ったのは、大火でダメージを受けた函館の街と家業再建への思いが、大きく影響していたそうです。

しかし、1939(昭和14)年、札幌円山球場で行われた実業団野球大会の試合中、牽制球を頭部に受け、42歳の短すぎる生涯を閉じました。

▼函館を愛した久慈次郎、試合中の事故で42歳の生涯を閉じる。▼右:構えるはるか先には、遠く離れた旭川スタルヒン球場のスタルヒン像
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函館オーシャンスタジアムでは、2006年以降毎年、北海道日本ハムファイターズの主催公式戦が開催されています。また、少年野球の大きな大会の開会式や試合が行われ、少年たちは「オーシャンでの試合」に憧れと喜びを抱いています。

▼2006年以降、毎年ファイターズの主催公式戦が開催されるオーシャンスタジアム
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▼オーシャンスタジアムは、少年野球大会の開会式や試合でも使われる。右:幼い子も好奇心をそそられる久慈次郎像の存在感
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久慈氏があまりにも早すぎる死を迎えなかったら、もっと野球少年たちに遺せたものも多かったかもしれません。静かなたたずまいでありながら、存在感に満ちた「球聖・久慈次郎」が、野球に励む子どもたちを見守り続けます。

▼『函館太洋倶楽部』ホームページ
http://www2.ncv.ne.jp/~ocean100/

筆者について

千葉美奈子

千葉美奈子

東京都出身。2012年夏から函館市在住。乳幼児と保護者向けイベントの講師業のほか、総合情報サイト『All About』の乳児育児・絵本ガイド。自身も子育て現役中。初めての北海道生活、函館の空の表情の豊かさは、長年かかって築かれてきた価値観・人生観に大きな影響を与えたようです。道南地方の個性的な魅力に触れるたびに幸せな気持ちに。趣味は料理、パン作り、野球観戦。