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道内初の鉄道「幌内鉄道」

 道内の鉄道建設は、ペリー来航後の箱館(現在の函館)開港が発端となりました。港に入港する外国の船は航行に必要な石炭を要求しました。しかし、当時の北海道では石炭採掘は行われておらず、そのため炭鉱開発は急を要しました。つまり、北海道の鉄道の歴史は石炭抜きには語れません。

 道内での石炭採掘ははじめ釧路地方の白糠からでしたが、箱館への輸送費用の問題などで茅沼炭山へ切り替え。実はこの茅沼炭鉱で使われていたトロッコ軌道「茅沼炭鉱鉄道」が国内で初めての鉄道という意見もありますが、そのあたりの詳細についてはこちらからご覧下さい。

 明治時代になって1868年、石狩在住の男性が木材切り出しのために石狩川支流をのぼっていったところ、炭層を発見。最初は開拓使も本気にしなかったが、1872年に札幌在住者が石炭を持ち帰ったことから、榎本武揚氏が現在よりもはるかに良質な石炭だと判断。これが幌内炭鉱の始まりとなりました。

鉄道輸送?それとも水運?

 その後、石炭をどう輸送しようかという論議が始まりました。お雇い外国人ケプロンは鉄道敷設を提案。その案として、幌内炭鉱から室蘭にいたる鉄路か、幌内炭鉱から幌向太まで鉄路で石狩川を経て海路で小樽に輸送するか、というおおまかに2つの選択肢を作りました。しかし、室蘭鉄路はお金がかかりすぎる、一方水運は水害、石炭以外の収入が見込めない、輸送力が低いなどとし、2つの案は対立しました(当時小樽~札幌間の陸路は難所で水運中心だったため全線鉄道という案はありませんでした)。

 そこへクロフォードが登場。彼は幌内炭鉱から小樽まで全線鉄道を敷設するように働きかけました。当時札幌~小樽間は断崖絶壁でまともな道路が通じておらず水運が中心でしたが、クロフォードの監督で小樽~銭函間の道路掘削工事が行われ、通れるようになりました。その手腕が高く評価され、手宮~幌内炭鉱までの鉄道敷設案を決定、開拓使から政府へ要請しました。

鉄道敷設工事開始!そして一部開業!

 鉄道建設工事は1880年1月8日にスタート。9月28日にはクロフォードがアメリカから購入した鉄道資材や鉄道車両がジェラルド・C・トベイ号に乗って手宮港に到着。いずれも国内初のアメリカ製列車で(本州はイギリス車)、蒸気機関車はペンシルバニア州ピッツバーグH・Kポーター社製造組み立て式モーガル型機関車「義経号No368」「弁慶号No369」の2両(26.1t・前面の動物よけカウキャッチャーやダイヤモンド型の煙突が特徴)、客車はウィルミングトン市ハーラン・エンド・ハリングスワース社から二軸ボギー車8両(最上等1両・上等2両・上等荷物2両・中等3両)、貨車はビルメヤー・エンドスモール社製の二軸ボギー無蓋17両、有蓋9両の26両でした。

 10月1日からはレール敷設、10月24日に熊碓第4トンネルまで4.8kmが完成、弁慶号と2両の客車を用いて初めて試運転を行いました。11月11日からは手宮~銭函間で仮営業スタート、11月18日には手宮~軽川(手稲)まで延長、11月20日に札幌(空知通仮駅=停車場、現在の札幌駅より西に150m))まで延伸。ここまで35.9kmが2ヶ月という歳月を経て開通しました。

 そして1880年11月28日運転式挙行、道内初、国内3番目の幌内鉄道が手宮~札幌間で開業しました。使用車両は弁慶号+客車3両(義経号はまだ組み立て完了していなかった)。当時は1日1往復、9:00手宮発・札幌12:00着、折り返し13:00発・手宮16:00着というダイヤ(翌年1日2往復となり時刻表完成)。料金は上等1円、並60銭、下等40銭、子供は半額や無料の措置がありました。駅は手宮、開運町、朝里、銭函、軽川、琴似、札幌。12月には除雪車として1両製造しました。

全線開業!

 その後はひたすら目的地である幌内炭鉱を目指して工事が進められました。難工事だったのは豊平川架橋工事で、橋が洪水で流されたりする中、道内初となる鉄橋がかけられました。全線開業後も豊平川の橋には手を焼きました。他にも泥炭地が多かったことも難工事をまねきました。

 そんな苦労もありながら、1882年6月25日に札幌~江別間で仮営業、10月20日に市来知まで試運転、11月13日に札幌~岩見沢~幌内間55.3km開業につき91.2km全通。翌年1883年9月17日、幌内鉄道開業式挙行。旅客は1日2往復(札幌~幌内間)、貨物は1日1往復(手宮~幌内間)となりました。11月末で冬季のため札幌~幌内は運休となりました。橋の数は191、トンネル6、建設費約155万7千円。幌内鉄道開業後の駅は、手宮・住吉・朝里・銭函・軽川・琴似・札幌・白石・江別・岩見沢・幌内太(三笠)・幌内。

幌内線のその後

 開拓使による幌内鉄道、その後は?というと、1882年の開拓使廃止後は工部省管轄となり、それも廃止になると1883年に農商務省所管、1888年4月には北有社が営業を請負うことになりました。そして1888年12月10日に、幌内鉄道幌内太から分岐し郁春別(幾春別)まで7.2km開業させました。これが「郁春別線」。

 その後1889年12月からは北海道炭鉱鉄道会社に払い下げられ、駅は手宮・住吉・朝里・銭函・軽川・琴似・札幌・野幌・江別・幌向・岩見沢・幌内太(三笠)・分岐して幌内と幾春別に。1890年には旅客1日2往復、石炭列車は1日4往復になりました。当時の所要時間は手宮~札幌で2:05、札幌~幌内で3:00でした。

 1901年には手宮~岩見沢間を手宮線、幌内までを幌内支線、幌内太~幾春別までを幾春別支線と改称。1909年のこと、鉄道線路名称制定で、札幌~岩見沢は函館本線の一部、岩見沢~幌内は幌内線に。1909年10月12日からは手宮~南小樽間(2.8km)を「手宮線」としました。手宮線は1962年に旅客営業廃止、1985年11月5日は全線廃止となりました。現在その拠点は小樽交通記念館という施設になって保存されています。

 一方、幌内線の三笠~幌内間2.7kmは、1972年11月1日に旅客営業廃止、1984年6月22日に国鉄赤字ローカル線第二次廃止対象路線となり、1987年7月13日には幌内線全線(岩見沢~幌内間13.6km及び三笠~幾春別間7.2km)が全面廃止となってしまいました。

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