道の駅北前船松前の海岸にある石積みの遺構は何なのか?福山波止場の話

道の駅北前船松前の横、小松前川河口にかかる国道228号の橋から海岸を見下ろすと、歴史を感じる石積みの波止場が2本、見えます。これは一体何なのでしょうか。

この名称は「福山波止場」で、歴史を紐解くと、北前船との関係も深いことが判明。そのことから2017年に日本遺産「荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間~北前船寄港地・船主集落~」を構成する文化財のひとつに選ばれました。

どのような経緯で生まれ、どのように使われていたのでしょうか。その歴史に迫ります。

▼道の駅北前船松前近くから海岸を見下ろすと

波止場がどうしても必要だった松前の城下町

松前町といえば、北海道唯一の日本式城郭「松前城(福山城)」があり、江戸時代の城下町福山は蝦夷地では最も栄えた町の一つでした。とはいえ、海運という点で見ると、前浜は水深が浅いことから船が停泊するには不利でした。そこで、大型船は沖合に停泊して小型船に積荷を積み替えて、陸地に運んでいました。

明治時代になると、和船だけでなく、蒸気汽船などさらに大型の船舶を受け入れる必要が生じてきました。そこで、1873年(明治6年)、地元の商人 栖原小右衛門が立ち上がり、私財を投じて港湾修理および石垣の波止場を建設します。そのときに完成した波止場は、長さ25.45m、高さ3.03mのサイズでした。

しかし、それでも十分ではなく、本格的な波止場を建設する動きが活発化します。栖原小右衛門は寄付金5,350円を集め、明治政府から6,000円を借り入れたうえで、1875年(明治8年)に着工しました。

建設は、函館の五稜郭の建築にも関わった石工 井上喜三郎が行いました。波止場の材料となる石材は、廃城となり解体された松前城の石垣を転用したもので、地元産石材でした。

こうして同年、東側に118.18mの長さに及ぶ大松前波止場、西側に154.54mの小松前波止場が完成しました。2年前に建設された波止場の4倍以上の長さになり、西側に至っては6倍の長さになりました。しかも2基、小松前川河口の両側に設置されたのです。

この波止場完成により、大型船が入港できるようになったことから、松前の貿易は飛躍的に成長しました。その中には、北前船も含まれていました。明治後期になると北前船は廃止され、1953年(昭和28年)に弁天島と松前灯台のある松前港が整備されると、次第にその役割を終えました。

▼現在の松前港は福山波止場より2キロほど西にある

▼福山波止場と松前港の位置関係

明治後期には広井勇の小樽港北防波堤建設が行われますが、それよりも前にこのような波止場が建設されていた、その歴史的価値から、2014年には選奨土木遺産に選定されました。

福山波止場のいま

118.18m、154.54mの長さがあった福山波止場ですが、国道228号の建設で一部埋め立てられることになりました。そのため、現在は東側の大松前波止場跡は約65m、西側の小松前波止場跡は約71mが現存しています。

▼現在の福山波止場周辺MAP

▼現存する西側の波止場

▼現存する東側の波止場

▼陸地側は埋め立てのため一部消失

福山波止場は道の駅北前船松前から徒歩圏内にあり、国道228号から降りていくことができます。干潮時には岩礁の上に建設されていることがわかると思います。船を係留する杭が両脇に残っており、北前船のバラストとして積まれた御影石の角柱も無造作に置かれ、今もその姿を見ることができます。

▼東側の波止場の様子

▼陸地をふりかえると

福山波止場に北前船がやってきていた歴史的背景を考えると、道の駅北前船松前がその横に建設されたのはふさわしいことといえるでしょう。松前町を訪ねた際は、道の駅に立ち寄って、北前船の歴史に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

参考文献:『松前町史』、函館開発建設部「土木遺産シリーズ」第7話