榎本武揚・板垣退助らも訪れた!明治から続く三笠の展望台「達布山」

【三笠市】炭鉱が発見され、道内初の鉄道「幌内鉄道」が敷設されたのは小樽からここ三笠の地。開拓が行われた明治時代から続く歴史があります。その歴史を長く見続けてきた展望台が、石狩平野を一望できる達布山です。明治時代の政府要人も数多く視察で訪れ、北海道開拓に伴う測量の原点となったとされています。明治時代から名所として知られてきた達布山展望台を紹介しましょう。

明治時代に重要な役割を果たした展望台

達布山は三笠市街地への入口にあり、石狩平野を一望することができる展望地でもあります。標高は143.8m、アイヌ語の「タプ・コプ」(頂上のまるい峰の意)が由来です。開拓時代には、頂上にあずま屋、休憩所、屋根が傘のような構造でクルクル回る風車仕組みの回旋塔などがすでに設置されていたといいますから、当時の道内の展望台としては充実していたほうでしょう。

その達布山展望台は明治時代から重要な場所として活用されてきました。例えば、幌内鉄道を敷設するためのプランは、この山の展望台からの眺望をもとに練られたといいます。それにより、1882年11月に手宮~幌内間が全通しました。

翌年1883年6月には、月形町の丸山と結ぶここ達布山山頂で火を焚き、月形との位置を測定。それをもとに樺戸街道(11㎞、樺戸道路、現・道道275号線月形峰延線)が月形町の樺戸集治監の囚人によって開削されることになりました。この樺戸集治監は1881年に、三笠市の空知集治監は1882年にそれぞれ開設されています。この両集治監を結ぶ道路として着工されたのが樺戸街道で、1887年に完成しました。


眺望が名所に!要人も数多く訪れた展望台

このように、鉄道や道路の開通のはじまりとなったのがここ達布山展望台なのです。樺戸街道が整備された1887年には、達布山裾から裏側を通り峰延に通じる山間の道路(道道1140号線)も合わせて開削。深い2つの沢に義経橋と弁慶橋を架けて、達布山からの景観も名所となるようになりました。

政府要人らも錚々たるメンバーが訪れています。西郷従道、板垣退助、永山武四郎、榎本武揚、山県有朋、山田顕義、井上毅、桂太郎など。これだけの面々が訪れた展望台というのも道内ではそれほど例は多くないはずです。


山頂には達布山三角点が置かれています。1911年11月に永久的基準点として設置されたもので、現在は青いタイルで囲まれた姿で確認することができます。このように歴史ある場所であるとして、1970年11月17日に三笠市指定文化財となりました。山頂には高さ15mの白色の展望塔と山田顕義の石碑も設置されています。展望台からは、平野に変わっていく丘陵地帯、南空知の田園地帯、岩見沢市街地を望むことができます。

明治の開拓時代から重要な場所だった達布山展望台。どんな思いで見渡していたのか、開拓の歴史をかみしめながら、眺望を楽しんでみては。

達布山展望台
三笠市いちきしり776-49 [地図] 裏側の道道1140号線から入り、展望台まで車で登る