帯広の大平原に昭和初期ながら贅をこらした店舗兼住宅「旧川原邸」

【帯広市】 十勝平野の中央に位置する帯広市。その南部の平原に、昭和初期に建築された近代和風建築の一つ「旧川原邸」が残されている。北海道ではなかなかない秋田杉材を使った一部洋風意匠の木造建物でありながら、土台には当時としては珍しいコンクリートを使用するなど、随所に創意工夫がみられる。

店舗兼住宅としての旧川原邸

旧川原邸は、2代目川原祐吉氏の店舗兼住宅で、昭和初期の1932年4月に着工、1年4カ月建築後、1933年12月に完成した。設計と施工は、滋賀県出身で幕別町在住の大工・田川某氏。建築に要した費用は約2500円とされ、当時としてはお金をかけた建物であった。

先代から続く建物は既にあったが、このたびの改築に当たって、川原祐吉氏と田川氏が二人で新家屋の構想を練ったという。先代から小間物屋をしていたことから、店舗を兼ねていることが必須だった。また、仏教の講義の集まりを開くため、人々がたくさん集まっても問題ないことも必要条件だった。

これらを踏まえ、建物入口向かって右手には店舗空間の洋室に、その奥に茶の間、さらに奥に台所が続く。また、入口から続く廊下を隔てて左手には10帖の和室2部屋の続き間を配置(付け書院や床の間、床脇を備えた奥座敷と仏間)、集会所として提供し、三方を廊下で囲むようにしている。その後ろに和室6帖と8帖の部屋を配置し布教師・僧侶の控室としても使えるようにした。一部2階建てで2階に和室10帖もある。

▼入口から続く廊下。右手は商業スペース、左手は住宅

▼縁側

建築資材は、構造材として地元の針葉樹を使い、座敷周りの天井や長押などに秋田県能代の杉材を使っている。祐吉氏が自ら能代に買い付けに行き、15t貨車で近くの旧国鉄広尾線愛国駅まで送らせたという。基礎部分には当時としては珍しくコンクリート造布基礎を採用、土台の柱の腐敗を抑えるため鉄製グリルをはめた床下換気口の位置も考慮している。

外観は、半切妻屋根。水平材と垂直材を組み合わせた和小屋と呼ばれる小屋構造や木造柱梁構造をそのまま見せており、木部の間を漆喰で埋めたことで、ツートンカラーも美しく見える。

縁側戸を収める戸袋に装飾が見られたり、茶の間の大判ダイヤガラスをはめ込んだ腰付きガラス戸、奥座敷周りの中抜きふすまや縦額入障子も確認できる。復元された茶の間の張り出し窓は昭和初期の住宅で多用された洋風意匠の一つだという。続き間の間の欄間には、金沢出身で帯広の清水仏壇店勤務の彫刻家・徳光陽運氏が2年がかりで作り上げた作品があり、これは竹・梅・菊・蘭の4君子を表している。

▼続き間。仕切り上部に彫刻を確認できる

▼茶の間。窓は出窓

▼台所と風呂場

地元で重要な立場にいた川原家

初代川原平吉氏は富山出身。明治32年前後にショモップヌ原野(現在・川西)に入植した。自営農業、小間物屋として、また、馬車での運送業の経営を行い、小地主としても成功をおさめた人物である。さらに、売買村村会議員を6年務め、地域のために貢献した。

2代目の川原祐吉氏は1908年に当地で生まれたが、7歳のときに父・平吉を亡くし、10歳で母親を亡くした。そのため1927年に家督を継ぐまでは、姉に婿養子の政次郎氏を富山から迎えたという。1928年に結婚し、その5年後にこの旧川原邸を建築することとした。

祐吉氏は川西村の収入役も務め、戦後には村会議員を3年務め、父親同様、村の重要な立場で働いた。1952年以降は帯広に移転し不動産業を営むことにしたため、旧川原邸は姉夫婦が譲り受け、さらにはその子息たちに引き継がれた。1999年に農林水産省田園空間博物館の地域の歴史的建造物として保存が決定後、2003年12月には川原家が旧川原邸を帯広市へ寄贈、2006年6月にとかち大平原交流センターの付属施設として保存されることとなった。

合わせて見たい「とかち農機具歴史館」

とかち大平原交流センターにはほかに、明治時代以降の農機具150点を展示する「とかち農機具歴史館」(2009年6月オープン)もある。旧館と2階建の新館とから構成される。収穫した穀物を脱穀後もみ殻などを風で選別する農具唐箕、肥料散布の畜力施肥機、畜力噴霧機といった昔の人たちの農機具は必見。開拓初期のころの農機具や生活用具、大正から昭和にかけて活躍した畜力用プラウ、カルチベータ、近年のトラクターまで、様々な農業用機器が展示されている。川原家をはじめ、当時の開拓の苦労を垣間見ることができる。

とかち大平原交流センター
帯広市川西町基線61番地 道道214号線と国道236号線交点付近 [地図]
TEL:0155-53-4780
月曜日を除く9:00~17:00(5~11月)
入場料無料